ヴェネツィア・ビエンナーレ、9月5日開幕

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http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/focus/0404_01.html
で、どういった評価が下されるのだろう。発表された時の話題沸騰ぶりと、現在の「ああ、そんなのもあるねぇ」ぶりの落差が、どうも気になるのだが。話題の焦点が「アートの場で萌えを語ること」の是非にあったのなら、開催を目前に控えた今、それが収束へ向かうのも自然なことなのだろう、とも思う。それとも移り気なヲタの気質が、そのまま反映されたのだろうか。アートの側にもヲタの側にも、真っ当な音楽や映画好きの側にも組みしきれない、宙ぶらりんなコウモリ野郎のわたしにとっては、なんとも尻の座りが悪い問題である。ハンサム団は、その誕生から村上隆的な展開をしてきたため、続けていればおそらくヲタたちと衝突する日もくるのだろう。結成当初は自称真っ当な音楽や映画好きと、激しくぶつかったけれど。なぜ衝突するのかと言えば、みんな自分を「アート代表」や「ヲタ代表」だと勘違いしてしゃべるから。その帰属意識*1、ハンサム団との最大の齟齬になっていたのではないかと思う。それらを解きほぐしていくことが、相互理解に至るための必要事項なのだと、かつては信じていた。今は・・・「分かりあえやしないってことだけを、分かり」あっただけのような、そのことを痛いほど思い知らされたような気がする。肥え太り続ける自我と自我、その辺縁がギリギリと摩擦するさまは、まるで挽きたてのミンチのごとく肉々しい。そもそも言葉だけで伝えられるのなら、ハンサム団なんてやってねーって。そしてわたしは相手を分かろうとし、我々を分かろうとしてくれる人たちがいた。それだけで、もう充分なのかもしれない。

周知のように、おたく文化はアートをはじめとするハイカルチャーの側からしばしば蔑視されながらも、まったく別個で独自の文脈を形成しながら発展してきた歴史を持っている(アートの世界で成功を欲しいままにしている村上隆は、両者の関係をすべて承知した上でそこに強引に介入していくその戦略のため、ネタ元であるオタクの側から激しい反発を受けつづけている)。その文脈のなかで実績を積み上げてきた関係者たちがアートの祭典であるビエンナーレに参加するということは、結果的には自らが対立してきた価値観に阿ることになってしまい、今までに確立してきた評価や信頼を失ってしまうリスクを孕んでいるのだ。もちろん、彼らの「賭け」が吉と出るか凶と出るかは蓋を開けてみなければわからない。おたく展として見た場合、企画意図の成否も最終的にはその一点にかかってくるのかもしれない。

つーか、いくつかヴェネツィアビエンナーレに言及したサイトやウェブログを見てまわったんですけど、やっぱりその辺りの論点が多かった。あとは、森川嘉一郎氏の狙いがいまいちピント外れなのではないか、とか。まぁどっちゃにせよ、アートにおもねっているのであろうと、アートと対等に渡り合えるだけの下地ができたのであろうと、まずはヲタの地位向上が至上課題、つーのも悲しいねぇ。生理的に受け付けない、キモいからって、ゴキブリみたいに叩き潰すわけにもいかんもんな、わらい。なんだかなぁ、南北戦争みたいじゃないですか?奴隷解放なんつー後付けの大義で、表面的に美化されはしたものの・・・ってね。「結果として奴隷たちが解放されたのなら、それでいいじゃないか!何が悪い!」とか。本質的には、まだどこも近代化されてないって事実が浮き彫りになっただけのような。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344008979/250-6874146-0699467
というわけで、とりあえず予約してみますた。

*1:もしくは、自己に溶解してしまった「自分以外の誰かが作り上げてきた(不本意な)威光」。