魔法少女の鉄槌

skb_mate022009-09-28

368 :42 :04/05/28 15:02 ID:50YIe2h+
周知のように、宝塚歌劇団というのは宝塚少女歌劇団として出発しています。この「少女」とはどのようなものなのか、それが問題です。リュス・イリガライはホモソーシャルな社会における女の役割についてかつて次のように書きました。
母、処女、売春婦、これらが女に課せられた社会的役割である。そこから、女性的(といわれる)セクシュアリティの諸特質が生じる。すなわち、再生産と養育との価値のつりあげ。貞節。羞恥。無知。さらに快楽への無関心。男の《活動》の受動的承諾。消費者の欲望をそそるための誘惑。しかし、自らは快楽することなく消費者の欲望の物質的支えとして身を捧げる。・・・・・・母であっても、処女であっても、売春婦であっても、女には自己への快楽の権利がない。
現在でも芸能界入りは父親に反対されたが、宝塚ならいい、と言われた、というような話はよくありますが、これはその父親が「ヅカ」を「処女」の空間だと思っているからですね。ちなみに女子大というのは、「処女」を「母」に、「良妻賢母」にするための装置だったはずですが、さて、最近はどうなのでしょう。

369 :42 :04/05/28 15:02 ID:50YIe2h+
で、「少女」というのは自らが「自己への快楽の権利がない」、「女」という存在であることを社会的に繰り返し受忍させられながら、諦めをおぼえさせられつつ、「母」になる準備をさせられている「処女」のことです。たとえ、援交したとしても、金をもらわなければヤレないようなオヤジを相手にしているわけですしね。この状況で、女がミソジニーを男以上に内面化させられないわけがない。「ヅカ」の「男役」というのは「自己への快楽の権利」を獲得した「女」の形象です。だから「オバサン」たちに人気がある。自らが果たし得なかった夢がそこにあるから。「母」となった者、これから「母」となることを強いられる者が想起する「処女」の夢、つねにすでにこの社会のなかでは失われている可能性の空間、それが宝塚なのでしょう。ところで宝塚好きの「男」というのが結構いますが、さて、あれはなんなのでしょう。そのうち考えてみたいと思います。直観的にいえば、見かけ(外見というよりは言動)はフェミニンだが実はマッチョ、モエタンの区分でいえば、見かけは「オトメ」だが実は「ヤロー」という感じの「男」が「ヅカ」ファンであるような印象がありますが、さて、どうでしょう。

371 :42 :04/05/28 15:34 ID:50YIe2h+
ちなみに、「労働力の女性化」という言葉があります。これは普通は女性の社会進出とそれにともなう女性非正規就労の増大をいうのですが、後者は現在では「男性」にも及んでいる。そのなかでかつてイリガライがいった「女の社会的役割」は、「男性」が果たさなければならないものにもなりつつある。SAMがモデルとなった男性の育児参加を奨励するポスターを思い出してもいいし、あるいは、ゲイ・メディアにおける「ノンケ」の価値や情報掲示板に書かれた「サ○」なんて伏せ字を想起してもいい。「母」「処女」「売春婦」。「男性」のなかに「少女」であることを強いられるひとたちが少なからず出てきている。精神分析医の齋藤環に『せんとうびしょうじょのせいしんぶんせき』という著作がありますが、ファリック・ガール(文字通りには男根をもった少女)がオタクにとって、なぜ、特権的な対象となるのか、なんていうのも、同じ現象でしょう。宝塚の「男役」もまた「ファリック・ガール」ですから。「男性」である、ということはもはや「自己への快楽の権利」をもっている、ということと必ずしも同じではない、のであって、それもまたフェミニズムへのバックラッシュの原因となっているのでしょう。「ヅカ」ファンとオタクに共通するナルシシズムについて、ここから考えることもできるし、そこにはもちろん非対称性もまたあるでしょうが、それはまた今度。
「タチとネコのジェンダー論」ガイドライン

1. たいへん興味深い記事を見つけましたので、ひとつ引用させていただきます。リュス・イリガライの説くホモソーシャルな社会における女の役割とは、ですか。「徹底して無意思であり、完全な受動態であるからこそ少女は美しい」(まんま綾波レイ)と澁澤龍彦が語れば、金子國義(あるいは美輪明宏)が群れ歩くオバサンをして「あれほど醜いものはない」という嫌悪を露にするのもなるほど、とうなづける説明です。金子國義がゲイゲイしいのはわかるけれども、澁澤龍彦からはあまり感じたことがなかった。かつてはやおい少女の導師的存在だったりしたのは周知の事実ですから、もちろん少年愛にまつわる文章もたくさん残しているのでしょう。稲垣足穂須永朝彦、それほどどぎつくないけれど中原中也宮沢賢治などからもそういったムードは漂ってくる。いまでいうと長野まゆみあたりでしょうか。イメージとしては、限りなく透明に近いブルーの鉱石とでもいったところ。脂ぎる前の男子によって形成されるホモソーシャル、それってまさに萩尾望都竹宮惠子にインスピレーションを与えたギムナジウムのファンタジーそのもの。ウィーン少年合唱団とか。しかしそのファンタジーもやはりミソジニー(女性蔑視)を内包しているわけで、読者である女の子は、そのミソジニーを母役割に対するアンチテーゼとして翻訳したのかなと思いました。で、ヅカ好きの男が、求肥オトメン・餡は野郎というのはとてもわかる気がします。というのは、最近増加の一途を辿っているように思えてならない、女子コミュニティの日常描写をメインとした作品に群がる層に被って見えるからです。数でいうと、だいたい女子コミュ好き男>ドリー夢>>>腐女子>>>>>>百合萌え男というかんじになると思います。算出したソースは、わたしの印象から誘導された憶測による丼勘定に過ぎませんが。「漢らしい」とか「男前」は昔も今ももちろん褒め言葉だし、言われたほうは喜ぶでしょうけれども、そういった形容から透かし見えるマチズモ的なイメージを嫌い、できるだけ払拭したいと努力している男子も少なくないのでは*1。逆に、ミリ子(軍萌え女子)の存在が徐々に知られつつあったりするのがおもしろいところですね。キャラ萌えだけでなく、本来的な意味で戦記ものとかを愛読する女子は、じつは相当数いると思いますし。とくに、ガンオタ三国志オタの女子に多そう。「ヅカ」ファンとオタクに共通するナルシシズムは、「傷つける性」としての男を背負っていることに対するコンプレックスと合わせ鏡だと思います。ちなみに、今日の一枚はオトメンから連想したキャラクターです。もちろんメガネのほうね。わかる人いるかな・・・?

八十一年に『ユリイカ』の「少女マンガ」特集で、萩尾望都吉本隆明が対談をしている。(略)「この作品(『ポーの一族』や『トーマの心臓』)のこういうところを読んでくれるなら、誰が読んだってちゃんと理解してくれるはずだとか通ずるはずだとかっていうことはあるんじゃないででょうか」(115) しかし萩尾は、あくまで、対象は女の子だと主張する。 「けっきょく同世代の女の子むけという感じがして、いちばん最初はかいてるから」/「少女マンガですもの、女の子ですよ」/「だからあくまで対象は女の子なわけです」(115) それはそうだろう、現に目の前の吉本には通じていない。描かれているのが少年であることを否定し(男性同性愛の表象であることを忌避し)、少女と少女に、さらに萩尾の内面にそれを還元しようとする。〈少女マンガ〉という事件を「ぼくら」の言葉に置き換えようとし、編集者も、「それが表現してたものというのは、決して萩尾さんが思ってたような読者対象ではなかったような気がする」(116)と(好意から)口添えする。萩尾の答えはこうだ。「あれをかいたのは二十二だから、二十二ぐらいまでは読めたりして」 男の批評家にほめられるのを名誉だ、出世だと思っている女なら、嬉しさに頬がゆるむだろう。あなたのかくものは、女の子相手のものと自他ともに思っていたかもしれないけれど、本当は「ぼくら」が感心して読むほどすごいものだったんですよ。吉本さんだってほめているんですよ。吉本さん、すごい方なんですよ。そんなふうに持ち上げられたら、有頂天になるだろう(なってる奴が現にいる)。まあ、そういう下心あって描いたものは、所詮その程度のものであるが。
ロワジール館別館 : 愚鈍な女

2. 萩尾望都の名前が出たところで、もひとつ興味深い記事を引用させてもらいます。『トーマの心臓』が当初少女同士で構想されていたという逸話を抜きにしても、萩尾望都が言いたいのは「女の子がより萌える臨界点を探りながら描いたらああなったのであって、別に偉いオジサンから褒められるようなことはなにもしていない」ということだと思います。当時すでに萌えという単語があって、その意味もなんとなく通じるようになっていたなら、ほんと「や、このほうが萌えるし」の一言で済む話ですよね。しかし吉本隆明が「少女と少女の同性愛だという世界の、それのひとつの転写」ではないかと固執したのは、ホモフォビアのせいばかりとは言い切れないんじゃないかなと。というのは、それが描かれた意図がどうであれ、とくに『トーマの心臓』を少女の同性愛に置き換えてわたしのような人間が読みますと、まぁ一種のクィア・リーディングをするとですね、身を折って痙攣せんばかりに萌えるわけです。仮にそれが萩尾望都の持つ女性性が一切投影されず、奇跡的な霊感によって描かれた作品であるとしても、百合萌えしてしまう以上、そういった側面をまったく持ちあわせてなどいないと言い切ることはできないんじゃないでしょうか。だから吉本隆明もそうだったのだろうと言いたいのか、と問われるとわたしにはわからないが、もしかしたらほぼ無自覚に萌えつつ、その淡い感情がなんであるか合理化できずにモニョモニョしていたのかもしれない。そして自身が偉い男の人であるという自負と自覚をふまえたうえで、作品が偉い男の人に対してもたらした印象の素晴らしさを評価する、という手段に出たのかもしれない。別に、わたしは彼を擁護したいわけでもなんでもないんですが。これは少年じゃない、少女だって言い切っちゃうと、やっぱりおかしいですし。でも、百合的に萌えるって言ったって、それって作者が女性だって初めからわかっていたからじゃないの? とか、しょせんヘテロ男がダフネコンプレックスに処女幻想を重ね視ているだけでしょう? というツッコミが返ってきそうですね・・・前者については、当時作者の性別やそれが少女向けであることなど意識していなかったし、後者については、当ブログの過去ログをざっと読み返していただければおわかりいただけるかと思います、としか言いようがないのですが。こういうとき、それなりの基礎知識を持っていないことがもどかしくてたまらない。ちゃんと勉強したいなぁ・・・。話が前後してしまいましたが、『トーマの心臓』から少女の同性愛の表層を汲み取り、あるいは嗅ぎ取り、その構造を(おそらく)意図的にパロディ化した作品が、当ブログで何度も話題にしている『シムーン』です。放送開始時のキャラクター設定において、ユリスモール=ネヴィリル、トーマ=アムリア、エーリク=アーエル、オスカー=パライエッタであったことは、誰が見ても明らかなのではないでしょうか。キャラクターの素案を練ったひとりにヤオラー御用達である會川昇(小山田風狂子名義)がおり、監督の西村純二が、「今日からマ王!」シリーズの監督を務めていたことも指摘しておきたいと思います。

*1:このあたりに関係して、 http://d.hatena.ne.jp/koisuru_otouto/20080820/ におもしろい記事が。しかし、いよいよ百合萌え男=ヘテロ男性向けレズビアンものポルノを偏愛するオタクといったイメージが磐石なものとなりつつあるのはどうしたものか。同性愛は性指向ですが、同性愛萌えは性嗜好に過ぎず、ポルノを消費するためには男同士でなければならなかった女性と違って、男性にとっての女同士は数あるフェティシズムのひとつでしかなかったというのが、その論拠だと思うのだけど。ほんらい少女に向けて描かれたはずの少女漫画のなかの百合を愛でるのは、やはり侵略だと受け取られるのか。少なくとも、マリみて以前はそんなこと言われた試しがないんだけれど。かと言って、厳密に男性的幻想を灰汁取りした100パーセントピュアな少女病もののみを偏愛ってのも、それはそれで痛いと思うし。このへん、もう少し最新のサンプルが欲しいところ。