百合物件リスト:短篇 その1

とくに目新しいものなどは挙がっていないと思います。ここの管理人がどういったものを偏愛しているかを知る指標程度にご覧ください。


高野文子「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」(『おともだち』所収)
今さらわたしが高野文子を語っても仕方ないので、ひとつだけ。何度も梨木香歩を引き合いに出して恐縮なんですけど、『エンジェル エンジェル エンジェル』の偶数章を読んでいて浮かんだのが、この「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の光景でした。女学生のあこがれや淡い慕情がたまらなくクる方に。
「ありし日の少女のごときはぢらひを 眼に見する子よ何を思へる」(竹久夢二


萩尾望都「半神」(作品集『半神』所収)
加納朋子の「沙羅は和子の名を呼ぶ」という短篇において、沙羅は和子の「ありえたかもしれない自分」として登場します。こちらの世界へ出てきた沙羅は和子を遊びに誘うのだけれど、大人には沙羅の姿を見ることができない。このように、少女はしばしば「想像の遊び友達」をもつことがあります。それはもうひとりの自分なのであり、それでいて絶対的な他者でもある。それをもっともドラマティックにしたのがこの「半神」だと思います。
「わたしに重なる影――わたしの神――こんな夜は、涙が止まらない」


神代遥「少女幻想〜夢で逢えたら〜」(『少女幻想〜夢で逢えたら〜』所収)
その「想像の遊び友達」をストレートに描いたのが、ドリーミィにもほどがあるこの「少女幻想〜夢で逢えたら〜」。信じる心はたくさんの夢を見せてくれるけれども、騙しあいでなりたつこの世を生き抜くためには、疑う心を養って、賢しく聡い人間にならなくてはなりません。どちらが良いとか悪いとかって問題ではないですけれども、願わくば少女期というものが、ただの踏み台に過ぎなかったと切り捨てられることのありませんように。
「誰もいらない、解ってくれなくていい。きららだけいればいい。きららだけ・・・きららだけよ」


陸奥A子「薔薇とばらの日々」(『流れ星パラダイス』所収)
麗しい姉妹愛をお求めのあなたに。現実の姉妹が、多くを共有するに至るほどの関係を築くことは極めて稀だと思われますが、それゆえに美しく、人はそういった物語を求めてやまないのだと思います。近似値に、高橋千鶴『しあわせ半分こ』や、山野りんりん「ふしぎなポケット」(『骨董あなろ具屋』第1巻所収)など。
「朝江さんは季里さんの、季里さんは朝江さんの、薔薇の蕾が次々ときれいに咲きますようにと、お祈りしながらベッドに入りました」


ふくやまけいこ「Sleeping Beauty」(『ゼリービーンズ』所収)
中国の怪談「牡丹灯記」を下敷きにしたお話は数あれど、これほどまでに少女性を強く押し出したものはあまりないんじゃないでしょうか。しかもそれが、可愛いの名匠ふくやまけいこの手になるものなのですから、その甘やかさたるや推して知るべし。ハイジとクララの関係へ、もうひとつ谷というか雨降ってを求める方に。
「またくるって約束したのに・・・ずっと長い間待っていたのに」


清原なつの「今6月の草木の中の」(『なけなしのラブストーリィ』所収)
少女が大切に手入れする秘密の花園へ踏み入ることが許されるのは、同じものを同じように感じられる少女だけ。彼女たちしか知ることのない、甘いモラトリアム。やがて少女協定が破られ、終焉を迎える輝かしい時間の前後を描いた、せつない小品。その想い出は、引き出しのいちばん奥にしまいこまれるのです。
「こわかったの。とりのこされるより先に、うらぎろうと思って」


川原由美子「ばいばいストロベリーデイズ」(『ばいばいストロベリーデイズ』所収)
「今6月の草木の中の」と似て非なるものが、この「ばいばいストロベリーデイズ」です。比都美の「杳子ちゃんより好きな人なんて欲しくない」という気持ちは、限りなく恋心に近いです。けれども、まだ幼い彼女はそれに気付くことができなかった。いや、「少しだけ片思い」だと自覚しているということは、気付いてしまうことに対するためらいもあったのかもしれません。「仲間はずれ」になることへの怖れとは、それへのものだったんじゃないかな。
「比都美、杳子ちゃんより好きな人なんて欲しくないよ・・・!」


垣野内成美「雛子と翠」(『午後3時の魔法』第2巻所収)
上記ふたつよりも、より強くシスターフッドを感じさせるのがこれ。雛子と翠の関係に焦点を当てるとさほど違いはないのだけれど、天使の翼と魔法の手をもつ「ナイチンゲール」、彼女の存在があることで、より女性同士の絆を意識させられるのだと思います。『午後3時の魔法』には、他にももっとストレートに百合を感じさせる掌編が多数収録されているのですが(第1巻所収の「映美」とか)、おそらくわたしの思い入れが少女特有のモラトリアムヘ偏っているため、こうしたエピソードを選ばせるのでしょう。
「女が女にやさしくあり合わなくては」(吉屋信子


望月花梨「裸足めぐり」(『裸足めぐり』所収)
そしてこちらは親友に依存するあまり、彼女を通してしか世界を見ることができなくなった女の子のお話。しかし、依存される側も必要とされることが自信の源になるという共依存状態ができあがっているんですね。たとえばマリみての令と由乃が目指したように、お互いが精神的に自立することで(学生に経済的な自立は求められないため)、それを相互依存まで高めることができればよいのですが。果たして「裸足めぐり」のふたりは、というところ。江平洋巳『白いバラの乙女』も、そういう関係を築こうとあがくさまが描かれていたように思います。そして惣領冬実「ヒトノ賞味期限」(『太陽のイヂワル』所収)には、そんなふたりが成人したのちの寂寞感が描かれていて興味深いです。
「私にとって彼女を通した世界はとてもあざやかに見え、それ以外のものはすべて色あせて見えるのです」