またもや覚え書き

skb_mate022004-09-24

以前読んだ本の中に、おもしろいことが書いてあった。『シェルブールの雨傘』を観たトリュフォー*1が、「これはSFの傑作だ」と評したそうである。そしてわたし自身も、数年前に大分県民オペラの『滝廉太郎』をテレビで観たのだが、まるで少年ドラマシリーズを観ているかのような錯覚に陥ったことがある*2。ひとが歌声で会話するなど、実社会では到底あり得ない。ならばそれらはファンタジーだ。なぜ突然そんなことを言い出したかと言うと、きのう紹介したサイト「コンピュータゲームに関する小論」のなかに、昔からSFファン、ファンタジーファン、そしてその両方のファンを巻き込んでケンケンガクガクとやられ続けてきた問題が書かれていたのだ。その当該箇所を、以下に引用する。

そもそも筆者は、SF(サイエンスフィクション)はファンタジーの一種であると思っている。正確には「ほとんどの」と付けるべきだろうか。一部ハードSFというジャンルを除いては、SFと言われているもののほとんどは原理に科学を持ち出さなくてもよいものが圧倒的に多い。別に「科学」が「魔法」と取って代わってもいっこうにかまわないのである。(中略)SFをはじめ、時間跳躍の物語が人々を惹きつけてやまないのは、そうしたことが人間の精神の奥底にある深い願望と一致しているからだ。これが「欲望」と呼ぶものなのである。SFは淡々として無機質なジャンルではなくて、それどころかそれと全く逆で、人間の願望が端的に顕れる人間臭いジャンルなのだと言える。
http://www2.ocn.ne.jp/~rulue/yuno.htm

まぁ卵が先か鶏が先かというのと同じノリで、SFがファンタジーの一種だ、いやファンタジーがSFの一種だ、とやりあっているのである。ただわたし自身は「SFとファンタジーは、二卵性双生児のような関係にある」と思っているので、その問題はさして重要ではなかったりするのだが。けれども件の文章を目にしたとき、ひさびさに思い出したので書き留めてみた。つーかほんとは、もっとだらだら書き連ねるつもりだったのだけど、睡魔に負けました。
蛇足 明らかにデカレンジャーをみているであろう人が画像に反応しないので、しつこく貼る。

*1:だったと思うんですが、うろおぼえ。

*2:なぜかタカラヅカを観劇しているとき、そんなことを感じたことはないんだけど。