ガラスの夜想曲

skb_mate022005-06-09

先今月号の『Cookie』で、水沢めぐみが読み切りを描いていて、他にも小花美穂だの矢沢あいだのというメンツをみるにつけ、これって旧りぼん読者の受け皿なんだなぁと思ったりした。かつてわたしがメインで読んでいた頃のりぼん作家は、ごそっとマーガレットに移動したわけだけど。

「乙女ちっく」を描いていた作家にもいろいろいるけど、その現在はだいたいふた通りに分かれる。大島弓子陸奥A子のように、描き手の実年齢にふさわしい作品を描き続ける人と、白倉由美川原由美子のように、山のあなたへいっちゃった人。少女の過敏な自意識から来る<美しいうちにこの世から消えたい>って願望を映し出した作品ってのは、言い換えればヤンキー〜ヤクザ漫画の<太く短く生きるんじゃい>と、本質は同じだと思う。どちらも、美意識の体現が行動様式となるのもよく似ている。ただ、前者が<他人との接触>を極度に怖れるのとは対照的に、後者では<他人との関わり>を抜きにしたら、物語は動かない。ゆえに、前者は自己の知覚の及ぶ範囲が、世界そのものとなる。後者は、あくまでコミュニティの域を出ない。

たとえば「シベールの日曜日」では、変質者と勘違いされたピエールが警官に射殺されるわけだが、これはピエールの哀れさに観客を同情させるためではなく、唯一の理解者を喪ったシベールの薄幸ぶりに酔うための演出なんである。筒井康隆七瀬シリーズでは、とうとう七瀬本人までアレされてしまうわけだが、おそらく筒井氏自身の七瀬への思い入れが、ああいう結末を書かせたのだと思う。無垢で純真な魂を表現するためには、つねに主観的にではなく、客観的に薄幸でなければならない。それがドラマツルギーというものだ。・・・御存知の通り、わたし自身は、アニーよりもイライザに萌える性質ですが。