雨と少女と私の手紙

skb_mate022006-09-06

「歎かわしいことだよ。君らにはつねに啓蒙がいるんだ。こやしほど神聖なものはないよ。その中でも人糞はもっとも神聖なものだ。人糞と音楽の神聖さをくらべてみろ」「音楽と人糞とくらべになるものか」「みろ。人糞と音楽では――」「そうじゃないんだ、音楽と人糞では――」「トルストイだって言ってるんだぞ――音楽は劣情をそそるものだ。そして彼は、こやしを畠にまいて百姓をしたんだぞ」
尾崎翠第七官界彷徨」)

1. 雨が降り出した。この時期の雨は嫌いじゃない。嫌いじゃないってことは、大好きだってことだと思う、たぶん。音や匂いはもちろんのこと、一面に広がる草原でさえ路地裏のように薄暗くなる、どんよりと曇った空が心地良い。なんとなく、ラップランドの冬を疑似体験しているような気分になる。窓を開け放って雨模様を眺めていると、自分の部屋がシェルターのように感じられてくる。建物の中にいることで、文字通り「風雨をしのいで」いることが実感される。わたしは10代と20代のほとんどを映画館の暗闇の中で過ごしたのだけれど、それは銀幕上で繰り広げられるあれやこれやよりも、映画館という不自然な空間そのものに惹かれていたからだ。だから、小劇場よりもまったく客のこない大劇場へ通うことが多かった。だからかつて通った劇場のほとんどが経営的に行き詰まり、閉館に追い込まれたようである。けれど、感傷的な追想にひたることはあまりない。数カ月おきに様変わりする街で遊んでいたし、そもそも帰る場所がなくなった時点で、そういった感性が消えてなくなってしまったのではないかと。もっとも、さらに年を重ねればそういった感情回路が生えてくるのかもしれないけれど、今のところ不自由はしていない。


2. 「『涼宮ハルヒ』シリーズはラノベ版『ハイペリオン』説」に触発されて「『ココロ図書館』はアニメ版『女だけの町-クランフォード』説」を唱えてみようと思ったが、論拠が薄すぎて自身すら満足に納得させられない仮説を開陳するのはいかがなものかとセルフ突っ込み。ただ『ココロ図書館』にギャスケルを当てはめる自分を客観視したことで、自分がいかなるものを求めているのか、という問いに対する答えを得ることができたような気がする。たぶん『ARIA』や『魔女の宅急便』に求めているものも、ほぼ同じなのだろう。

しかし彼女は、エリザベス・ギャスケルとしての一つの確固とした真価を示している。すなわち彼女の敏感さ、人間性への同情、ユーモアと快活さ、複雑でない人物に対する直感、とりわけ英国の自然の美しさに対する強い感情などがそれである。
日本ギャスケル協会「ギャスケル文学の特質」 http://wwwsoc.nii.ac.jp/gaskell/bungaku.html

ジョルジュ・サンドがギャスケル作品のもつ善性を高く評価し、「その作品はそれらを読むことによってすべての女性がよりよい人間になるような作品である」と書いたことにグッとくることこの上なし。