世界の果て

花宵道中

花宵道中

マリー・ローランサンいわく、「死んだ女よりもっと哀れなのは、忘れられた女」なのだそうです。なぜそんなことを言い出したかというと、ちびちび読み進めていた『花宵道中』を読了し、静かで深い感動をおぼえつつ、マキア的に言うところの"うっとり感"に包まれながら、いきつく先はやはり『ブルースカイ』で桜庭一樹がテーマとした"繋がっていたい"であり、アスカの血を吐くような"わたしを見て!"であり、こっこの"わたしを忘れないで"であるのだなぁという想いを新たにした所為なんでございますのよ。

遥か流れていく白い雲が染まるころ / 抱いて 壊すように抱いて / いっそ飛べない鳥だったなら / ママの涙 パパの怒り / そして覚えていた 血まみれのまま / 爛れた羽根を裂きあう前に そっと消えてしまえばいい / だけど忘れないで わたしを忘れないで (Cocco / 寓話。)

官能小説ですという惹き句通り、ていうか吉原遊郭を舞台にしているだけに性描写もガッツリ描き込まれてはいるのですが、これぞまさしく"おとなのための"ロマンティックかつ乙女チックなお耽美小説と言って差し支えないかと思われます。特に指摘しておきたいのが、遊郭や大奥を舞台にした物語につきものの"女同士の陰湿な争い"がほとんど描写されず、むしろその境遇ゆえに身を寄せ合い、いたわりあうシスターフッドこそが全編に満ちている点。第四章にあたる「十六夜時雨」のラストシーン、「姉さん早く。いつか八津は朝霧の手を引いて言った。姉さん早く。いつか三津は八津の手を引いて言った。 残された者たちは、生きてゆくために他の誰かの手を取って、前に進む」というくだりでは、もう素でボロボロ泣いてしまいました。しかも電車の中で。あわてて本閉じたっつうの。働き始めた16才のころ、会社の寮に据えつけてあったテレビで映画『夜汽車』を観て以来、ほんとこういう話に弱くなったもので。


雨の塔

雨の塔

女子校生活に、憧れたことはないでしょうか? 姉妹はおらず、保育園から大学はすべて共学、しかも現在の文芸編集部に至ってはほぼ男女同数という環境で生きてきた私には、女の園に対する勝手な妄想があります。たぶん現実には、メンドクサイことがてんこ盛りでしょう。でもこの作品に書かれている大学には、美しいものしかない気がするのです! いつも雨が降っているような陸の孤島。街には洋服と食べ物が溢れ、寮には美しくミステリアスなルームメイトがいる。彼女たちは皆ひっそり孤独を抱えているがゆえに穏やかで理性的で――ああ、こんな人たちとなら、同性ばかりでもトラブルなく暮らせそうです。いや、でも寂しくなって誰かを所有したくなるのかも。あ、だからこの小説に出てくる四人の少女たちの間には、恋愛感情が芽生えるのか!(担当編集者による紹介文)

で、こちらが『花宵道中』に続く新刊だそう。上記の紹介文を読んで、そらわたし好きやわなと大笑いしてしまったのですよ。その昔、勝新太郎セルジュ・ゲンズブールのことを知ったとき、「フランスに、おれみたいな奴がいるらしいな」と発言して「なんでやねん」と突っ込まれたという逸話をどこかで読んだことがあるのだけれど、わたしも『好夏』シリーズの存在を知ったおり、「あれ?おれいつのまにこんなビデオを撮ったんだろう」ぐらいのことを思ったものです。そしてこの作品を知り、それに近い印象をもってしまったわけですが・・・ええ、あつかましいのは承知のうえで。著者いわく「趣味全開の、間口のものすごく狭い本」とのことですけど、まぁ否定はできないかもしれません。マイノリティを自覚しているわたしにとってどまん中ストライクだけに・・・って、言っててせつなくなってきたんですけど、こういった作品がまったく出てこない世の中でもないわけですし、機嫌直して生きることにします。もっとこういう本がどんどん出て、どんどん売れて、なおかつ高く評価されればいいと思います。そうすると、わたしが喜びます。嬉しいもんだからじゃんじゃん買う。そうして経済が活性化・・・しないか(一部『ミーナの行進』の感想文をリサイクルしています)。