好き好き 大嫌い

田鶴(瀬戸朝香)と三弥(酒井美紀)はお城で行儀見習いをした友だちだった。田鶴は兄の新十郎(山口馬木也)が若くして切腹した理由を、兄と相思相愛だった三弥にふられた為だと思っていた。それから十数年後。田鶴の婿・織之助(田辺誠一)と、三弥の夫・宗方惣兵衛(葛山信吾)が家老の座を争うことになる。三弥だけには負けたくない。田鶴は気弱な夫の尻を叩く。そんな折、田鶴が刺客に襲われた旅の侍を救う。田鶴は小太刀の名手だった。旅の侍、関根(山口馬木也・二役)は兄とそっくりで、藩内の不正を暴く密書を携えていた。やがて田鶴は筆頭家老(石橋蓮司)の陰謀の渦に巻き込まれてしまう。秋祭りの夜、関根はおびき出され、護衛の家士(河合龍之介)ともども殺される。家士と客人の仇を討つ! 田鶴の行く手に、三弥が立ち塞がる――。
NHK時代劇スペシャル「花の誇り」 【放送日時】総合テレビ 2008年12月20日

奴股:『花の誇り』観たよ。藤沢周平にあんな感性があったなんてなぁ。三弥が愛していたのは、新十郎でなく田鶴のほうだったと。二人の少女時代、時代考証があるのか、女学校の翻案なのか、どっちだろうね。

chibinova:封建社会において、娘をより高位の家へ行儀見習いに上げる習慣は、洋の東西を問わず一般的に存在した。もちろんそれが、良縁に繋がるためなわけだけどね。当時、女子教育の場はそれ以外になかったから、行儀見習いが実質的に女学校の前身と考えて差し支えないと思う。

奴股:いちばん印象に残ったセリフが、田鶴の「新十郎様を好きになったのは、わたしの兄だったからですか?」(正確ではないけど)というような言葉。今、またジラールを読んでいるんだけど、他者によってかきたてられる欲望、ライバルという図式そのままだ。欲望をかきたてあうライバル同士は、やがて危険な状況になる。その危険を回避するためには、共通の欲望の対象=犠牲が必要になるのだ。あの場合、藩をゆるがす家老とその雇われた浪人に、共通の意識が向かった、と。三弥の「嫌い、大嫌い」は、好きの最上級の表現だったのかも。

さようなら、美しい人 1 (フラワーコミックス)

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さようなら、美しい人 2 (フラワーコミックス)

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chibinova:そうそう、「好き、大好き」の裏返しだったわけだ。わかりやすいツンデレだよね。田鶴のほうは、嫌いという言葉を真に受けたままおとなになってしまったわけだけど。藤井みつるという漫画家に『さようなら、美しい人』っていう女同士の復讐劇もの作品があるんだけど、その惹句が「激しい憎しみは恋に似ている。相手のことを考えずにはいられないから…」っていう。男子だと直接的な暴力で優劣をつけてはい終わり、みたいな傾向があるけれども、女子の場合は長い時間をかけて執拗にネチネチと追い詰めたりするじゃない。その過程で、たとえば吊り橋効果的な好きと嫌いの逆転もありうるのかな、と。「好きと嫌いは同じものでできている」なんて言うしさ。ところで、田鶴と三弥の意識が家老と浪人に向かった、とは?

奴股:もちろん、それは表面的な、いわば和解の儀式のようなものとしてだろうけど。というのも、決闘の際、三弥が刀をとって、田鶴に手渡すだろう。きわめて儀礼的、象徴的な振る舞いだ。和解の儀式なのだ。ああいった象徴行為が、様々な宗教、様々な文学の形態において見られるとジラールは語っているのだが。もちろん、このような「解説」をしたところで、君が追求するところの百合的美がいささかも語り尽くされたことにはならないがね(笑)。時代劇のなかに、新鮮なものを見た思いだ。あの映像がまたよかったなあ。三弥が手の甲を上にして、真横に掲げる。それを、田鶴が取って、彼女を立ち上がらせる場面。セピア色で、ちょっとサイケな音楽が流れてて・・・・幻想ここにあり、だったわ。あの映像=少女時代の回想ね。

chibinova:ああ、君的にはそこが萌えどころやったわけやね。

奴股:そう、なんか『夢のかよいじ』的な。