白だの黒だの


1. 「性格は正反対だけど大親友。女の子ふたりの幸せさがしの旅がはじまる」って惹き句に釣られて借りてきた『ドゥーニャとデイジー』を視聴。『リリィ、はちみつ色の秘密』に印象近し。前者はオランダに暮らすモロッコ系移民たちのルーツ意識とイスラム、後者は公民権運動と60sの南部におけるカトリックがキモ。もちろんわたしにとっていちばん重要なのは、おにゃのこの友情なんですけどね。タイトルバック、エンドロールがともにイヤらしいぐらいガーリィでたまらんかった。ソフィア・コッポラのうっとりする表情が目に浮かぶようだw しかしテオ・ファン・ゴッホがモロッコ系の青年に殺害されたりと、オランダではモロッコ系住民との民族問題が相当深刻なんだな。ドイツでもネオナチが台頭してきてってニュースを数年前によく目にしたし、いまやヨーロッパ全体の問題なんだろうけど。 そして引き続きジャック・リヴェットの『北の橋』を視聴。リベルタンゴ・パリの街角・二人の女ってキーワードで死ねる人向き。ただ、オチは訳わからなすぎw 笑える人ならいいけれど、マジ怒りする人もいるかもしれないw これを傑作だと賞賛したらしいドゥルーズって女の友情萌えだったのかな?w ちなみにリヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は百合者・アリス中毒者必見。だが『パリでかくれんぼ』はヒロインのパンチラしか記憶にない(←氏ね。


2. 下記引用はzubiからのメール。これを肴に少女を語ったりしちゃう?と話し合っていたものの、なかなか時間があわないのでわたしなりの感想を書いておきます。

犬養道子『幸福のリアリズム』、中央公論社、1980.収録の「日記のナルシシズム」に、以下のような記述がある。

外国人(西洋のみならず、東洋諸国をも含む)の日記には、ずらずら長く書いてある場合にも、相当に自分の内面を書こうとしている場合(たとえばアミエル、あるいはジュリアン・グリーン)にも、自分以外の他者や、あるいは、自分の外で起こっているいろいろなこと(必ずしも大きな出来ごとと限らない)が、かなりの部分───と言うより、最低六十パーセントくらいのわりで登場する。主観や「気持」に流されない。自分の内面を書くときすら「気持」の中にとぐろを巻いて書くのではなくて、むしろ、自分を突き放して、「他者」であるかのように見つめて、書いている。これにくらべ、大方の場合、日本人の日記は(『木戸日記』や、外交秘録としての日記『蹇蹇録』をのこした陸奥宗光等は例外で)、とくにも日本人女性の日記は、書いた当人にしかとどのつまりはわからないモノローグ(独白)的要素がかなりつよい。しかもそのモノローグは、ずいぶん多くの場合うつろい変わる「気持」に左右されているから、モノローグの書かれ方が文章としてすぐれている場合には、それなりの感動は読者に伝わるが、結局、「閉ざされた」記録なのである。他者とか外界は、「われ」と結びつく───もっと突っ込んで言うと、「われ」のそのときの「気持」に向って手さぐりよせることの出来るときに限り、登場する。(54−55頁)

犬養は近いページでは“天上天下唯我独尊とはこのことで、彼女自身だけが全世界なのである。”(58頁)とも表現しており、非常に面白い。何が面白いかというと、彼女は「成人してあること」の否定的材料としてではあるにせよ、少女の少女性を非常に正確に定義しているように思われるからだ。実際、彼女は実例として24歳の女性との対話を挙げているが、その女性の「女の子」たるや見事なものだ。犬養の意に反して、少女の気持がいきいきと伝わってくる。キリスト教文献でもたとえばオリゲネスの『ケルソス論駁』をとおして、論駁相手のケルソス、今はもう第一次文献は失われたケルソスの主張を正確に知ることができる。少女論も、少女を否定する、もしくは少女性に懐疑的な著作家の少女分析をとおして、その輪郭をより鮮明にすることができるかもしれない。

サラ・ウォーターズの『半身』の中で、作家ワナビーであるマーガレットが書いたものをインテリっぽいおじさまが読み、「自分はオモロく読めちゃったりなんかするけど、でもしょせん女の子の書くものなんて『マイ心の日記』でしかないよね。"ぽえ夢"レベルで文学しちゃおうなんて、やっぱ女の子ってのは軽佻浮薄な情緒マシーンでマジワロスw だがそこがカワユスwww」みたいなコメントをするシーンがあったけれど、それを犬養道子のような少女脳―なにしろ回顧録のタイトルが『花々と星々と』って人だ―の持ち主が同じように分析し、書き記したという事実がまず興味深い。いうなれば、多感な少女に向かって「君はバレエが好きだというけれど、腕や脚の動きと身体のフォルムが表現しようとするもの、そしてそれを目にした君の感動と連想と記憶へと澱なす様子を書き記したところで、それは所詮君自身と、君の感情に限りなく近しい感情を抱き得た刹那にある他者にとってしか価値がないものなのだよ」と言うようなもの。「だから腕や脚の動くメカニズムや、フォルムに象徴される記号と文法も書き込まなくてはね」などと諭されたところで、「ハァ?」ってなものだろう。少女にとってはいい迷惑である。が、その後の「彼女自身だけが全世界なのである」という記述は、「いや、セカイ系なんて少女漫画がずっとやってきてたことやん」を一言で言い表していて痛快ですね。特別でありたい、でも周りから浮きたくない・・・つまりはオンリーワンになりたいという少女の欲望そのもの。少年は違いますよ、彼らが目指すのはナンバーワンですもの。もうすんごくわかりやすい例を挙げると、正義の味方であるはずのセーラーネプチューンが「はるかのいない世界を守ってもしょうがないじゃない」って言い放つアレ。当時セラムン同人を買い漁っていたらしい庵野監督は、もともと少女漫画もよく読んでいたということで、そういった要素も盛り込みつつ作っていて、気がつけばパラダイムシフトしちゃってたーという感じなのかな。で、少女漫画ってお目々キラキラの美形キャラが好いた惚れた言ってるだけだろ?という認識だった連中が、「なにこれマジヤバくね?」って大騒ぎしたという。今では、気持ちの連続で紡がれる文章と、共感を主軸とした物語への関わり方のもつ価値(っていうのも勝手なレッテル貼りだけど)というものが、おっさんにもある程度理解されていると思いますけど。それはさておき、1980年当時にはまだ少女が社会に受け入れられていなかった。社会へ主体的に関わり得るのはだいたいがおっさんで、おっさんにとっての少女とは、セーラー服を脱がさずにはいられない程度の存在だった。音楽室の壁には基本おっさん作曲家の肖像画ばかりが掛けてあるけど、美術室にはデッサン用の裸婦像がいっぱい!みたいなね。そんな彼女たちが、どうして他者やその複合体である社会を絡めてものを考えなきゃいけないの?と思い至るのは、ごく自然なことだろう。最近NHKに推されている秦万里子も、自分の半径3メートル以内にあるもののみを歌って主婦に受けているというけれど、いま主婦をやってる人たちが当時は少女をやってたわけでね。以前にも塩野七生の「男を書く時は、女を書かなくても用はすまないこともないが、女を書く時は、男を書かないですませることはできない。それ故に、女を書くことは、結果として歴史の真実に迫ることになる」という記述を引いたことがありますけど、まぁそういうことです。だからこそ少女の意識はより内へ向かう。小倉千加子の言葉を借りれば、「物言わぬ自然と共にある時にだけ、少女は幸福」なのであり、そして「少女の心象風景以上にラディカルな風景というものは、この世にはない」と。もちろん世の中の少女がみんな『ミツバチのささやき』のアナや『赤毛のアン』のアン・シャーリーだと言うつもりは毛頭ありませんけど(環境にも左右されるし)、共振できる少女はものすごく多いんじゃないかな。