don’t believe the hype

skb_mate022010-05-12


どういう流れでだかは忘れてしまったけれど、以前zoeさんから「君はヒップホップ聴いてたの?」みたいなことを訊かれて、まぁ人並みに聴いてましたと答えたことを思い出して。そもそもは高校の頃ハワイへ行ったおり、向こうの小学生から「Run D.M.C.って知ってるか?」と訊かれて「知らない」と答えたら、「なんだそれダッセーの! これからはヒップホップだよ!」と言われたので、そうかーヒップホップかーと帰国してから輸入盤屋でPUBLIC ENEMYやらN.W.A.あたりをチェックし始めたのだった。なのでバンバータやグランドマスター・フラッシュは後追い。で、いろいろ知っていくうちに、ヒップホップとはもともと実家のレコード棚にあるスクエアな、ダサいジャズやソウルのレコードを、ヒップで踊れる感じにアレンジするって発想だったということがわかってきた。少なくともクール・ハークがDJを始めた頃は。レアグルーヴは流れで印象を変えるという視点だったけれど、ヒップホップはさらに楽曲をパーツに分け、さらにリズミカルなしゃべりというかアジテーションを載せることで、文字通り「うた」だったポップスという概念をくつがえしたと思う。それはアフリカン・アメリカンにとって原点回帰だったのかもしれない。思えば、モータウンが3分ポップスを複製していくことでショウビズ界で台頭したことと無関係ではあるまい。先祖たちが残してくれた文化遺産を工夫して使うのだというプライドが大いに作用していたのではないかと思うけれど、とにかくそれが、90年代のストリートなリアルを直視的ムードに弾みをつけたのではないか。そして彗星のようにあらわれ、瞬く間にヒーローの座へ登り詰めたのがジョージ・ルーカスみたいな格好をした若きウェルテルだったわけだが、それはまた別の話。ヒップホップのもたらした驚きと影響力はとても大きく、ポストモダンな人たちも現象としての解体・脱構築がここにあるやんと食いついた。が、考えてみれば古着をリメイクしてかわいくコーデするとか、女の子たちは当たり前にずっとやってきてたことで。見りゃわかるものを、なぜまわりくどく言語化するする必要があるのか、彼女たちにはさっぱりわからないし、ナンセンスきわまりないわけですね。けっきょくのところ、好きか嫌いかでしかないことを知っている。以下、わたしの友人が「いつになったらすべてを説明するという習慣をやめるのでしょうかね(サティ『本日休演』譜面書込)」というタイトルで書いた記事の一部を引用。

“「正しさ」とは、けっきょくのところ「正しさ」の正しさを問うことができないようなところで成立している。だが、「正しさ」とは、まさにこのような「正しさ」の正しさを問いたくなるような場面においてこそ、その輪郭をあらわにする。”“私が何ごとかを意図するとき、私はそのことを考えている必要はないし、また、その他のなんらかの心的状態にある必要もない。意図はその後に展開するしかるべきエピソードとともに、回顧的に作られていくのである。”(野矢茂樹『哲学・航海日誌』)
ウィトゲンシュタインやダメットに触れると、そう、Spiritual Vibes に『ことばのまえ』というアルバムがあったが、その、かたちにできないが気配はする何かを際立って感じる。上記に引用したようなことは、あるいはベルグソンアウグスティヌスから霊感を受けていたことなのかもしれない。わたしたちはなんでもかんでも微分することに慣れすぎているから。微分積分とはまったくことなる意味での「全体」をイメージしてみること(むしろ高校時代、なかなか理解できなかった「集合」?)。しかもその「全体」は、「外」があって成立する「全体」であること。「外」について、それは到達できないものとして考察しない立場もあろう。けれども、「外」について、終わりなき言葉を空費することに一生を捧げる人間も、またあってもよいはずだ(言葉の「外」なのだから言葉にできるはずがないと知っていながら!)。

一旦抽象化して共通ルールを作り、勝敗を決めることで優劣をつけないことには、大変に困る人たちがいる。優劣がつかないと、権威も発生しない。そうすると権力にも結びつかず、ゴールがなくなる。数千年の時をかけ、勝者がそれ相応の権力を持つシステムを作り上げてきた人類にとって、総当りで波長があう、あわないを判別していくなんて行為は、まどろっこしくてやってらんないわけですね。よく女子はカテゴライズやレッテル貼りを嫌うといいますが、それは女という性が個人事業だからではないかと思います。それゆえ、男の前で態度の変わる女子は嫌われるんじゃないかなぁ。フェアじゃないから。とまぁ、こんなところです。名前が出たついでに、モータウンで活躍した女性のセッションベーシスト、キャロル・ケイについての記事を貼っておきます。書かれたのは小山エミさん。

モータウンでは白人のスタジオミュージシャンはたくさんいたらしく、Kayeが白人だからという理由で賞賛やリスペクトを奪われたということはありえない。だけど、女性として様々な苦労をしたというのは事実だろうし、自分の音なのに「女がこんな音を出せるはずがない」と言われたことも一度や二度じゃないと思う。そして、彼女がそれを打ち破って数々の名演奏を残したことは、賞賛されるべきだ。
minx [macska dot org in exile] - フェミフェミな音楽エッセイにツッコミいれてみる。

肩に純白の翼をもった想像的宇宙の天使、あなたはわたしの美しい扈従となるのだ。そうだ、あたしと Mとこの「城」で恋人同士の生活をはじめよう、二人の幽閉された巫女として…ではまた次回。