美少女戦士セーラームーンのはなし

skb_mate022004-06-21

セーラームーンを知らない人はいないと思うが、ではどういうお話かを知っている人というと、これはかなり少数と思われる。以前読んだ歌謡曲の研究本によると、チャート上位にランクインする曲が、イコール誰でも知っていて口ずさめる曲と限らなくなったのは、おニャン子クラブ以降に見られる現象なのだそうだ。ゆえにセーラームーンの放映が始まった90年代初頭は、メディア全般にそのような傾向があらわれ出した時期なのかもしれない。わたしは1992年の放映開始から1997年の最終回まで、ほぼ欠かさずに観た。そこまで根気よく、ずっと観続けたアニメ作品は他にないと思う*1。そこまで熱中した一番大きな要因は、キャラクターの造型やネーミング、設定、そのテーマもさることながら*2、1993年に公開された劇場版『美少女戦士セーラームーンR*3があまりにも素晴らしく、かつTVシリーズ美少女戦士セーラームーンR』を受けて放映された『美少女戦士セーラームーンS』も素晴らしかったからに他ならない。中学生の頃、『レジェンド / 光と闇の伝説』(リドリー・スコット)の海賊版ビデオを苦労して手に入れ、字幕なしながらもその映像美に酔いしれた。まるで、そのときのイメージが蘇ったかのようだった。そして、たとえば『シザー・ハンズ』(ティム・バートン)、『聖杯伝説』(エリック・ロメール)、ちょっと飛躍して『ランブル・フィッシュ』(フランシス・F・コッポラ)等に見られるような、幾原邦彦氏による象徴主義的手法が*4、若いわたしの持っていた豊穣な想像力を喚起してくれたのではないかと思う。もちろん当時は幾原邦彦氏についての知識など皆無で、ただただ「大きなお目々のお子さま向け」であるはずのアニメが、なぜここまで自分の琴線に触れるのか、不思議で仕方なかった*5。後に庵野秀明氏が、コミケ等でセーラームーン関連の同人誌を買い漁っていたというエピソードを知り、妙に納得したものだ ― やっぱりセーラームーンはファンタジックSFだったんだ、しかもオレのツボを突くたぐいの、と。ここまで書いておいてなんですが、やっぱ思い入れが強すぎて、うまく書けないや。すんません。余談ですが、当時やっていたバンドのライブ宣伝ビラやアンケートにセーラームーンのキャラを使いまくり、思いっきり引かれたうえに、よく怒られました。おしまい。
《today's tune》『ブラック・ムーン』(ルイ・マル)劇中歌 /「イゾルデの愛の死」(ワーグナートリスタンとイゾルデ』より)

*1:というより、そこまで長期間に渡って放送される作品も少ない。

*2:当時はまだ「萌え」という単語も概念も存在せず、ただこっ恥ずかしさだけがひとり歩きしていた・・・って、それは今も変わらないかw

*3:で、劇場版『美少女戦士セーラームーンR』について大いに語ろうかと思ったのだが、すでに語ってくれているページがあったのでそちらをどうぞ。 http://www.yo.rim.or.jp/~sagi/aniheya/smoon/moonRmov.html

*4:あるいは、ピクトグラム的と言ってもいいかもしれない。幾原邦彦氏は、のちの『少女革命ウテナ』において、それらを存分に駆使してみせた。

*5:『この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。それは少年少女期の終わり頃から、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとってゐる。(中略)これらは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しやうとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であつて、決して畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。(中略)それは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。』(宮沢賢治注文の多い料理店』発行時の広告より)