小さな泥棒

これを観るのは数回目だが、いつ観ても感極まって、その辺のものを破壊したくなるぐらい大好きな作品である。とくにラスト近く、ラウールが出征するシーンでは、最高に込み上げてしまう。『大人は判ってくれない』少女版というのが惹句なんだけど、それだけで済まないのだ、わたしにとっては。サントラは、ベルベット・ムーンの旧店舗で買った。それはとても、幸運な巡り合わせだと思う。さて、邦画でこれと同じ肌触りをもった作品が、塩田明彦の『害虫』である。アントワーヌ・ドワネルものへの愛に溢れた、素晴らしい作品だった。そしてもうひとつ、佐藤闘介の『愛・昧・Me』*1。主演の裕木奈江は、どこかシャルロットに似ている。だがいまひとつ演出の鋭さに欠けるので、不思議ちゃんキャラになってしまっているきらいがある。こういった映画には、いつも「甘ったれている」だの「ただの世間知らず」だの「幼稚なだけ」だのといった批判がつきものだ。かつて、尾崎豊がそう言われ続けたように。あながち間違った指摘ではないと思うし、そういったものを偏愛するわたしも、また甘ったれて見えるのだろう。だが映画とは、それらを肯定も否定もしない、ただの虚像だ。そういうものなのだ、少なくともわたしにとっては。それを汲んだわたしが、この先なにを感じるのか。人生とは、それそのものがジュブナイルだ。「せいちょうのきろく」に押される手形のようなものなのだ。それが、映画を観るという行為の半分を構成している。残り半分は、混じりけのない純粋な暇つぶしだ。そこに意味など、ただのかけらもない。

帰れなくなって、失ってみてやっと気づいたんだ。
たとえつまんなくても、そのつまんない毎日のくり返しが、実は大切なものだったんだって。
(アルス)

なんだか無性に、『イザベル・アジャーニの女泥棒』をもう一度観たくなってきた。

*1:あがた森魚の『オートバイ少女』も、若干雰囲気がかぶっているかもしれない。『白い婚礼』もテイストは近いけれど、あれはヴァネッサがただひたすらかわいいだけのダメ映画。