木枯らしの舗道を 花の咲く春を

skb_mate022005-03-03

インディーポップを偏愛する心理も、ミニシアターでかかる映画を偏愛する心理も、基本的に同じ動機から志向されるものだと思う。そこはかとなく「こんなの好きなのは自分だけ」感をくすぐってくれる。子どもにとっての、秘密基地ごっこみたいなもの、なんだろう。しかも現代は、やたらと個性なる単語が叫ばれる。うかうかしていると、誰もがブロイラーになってしまう危険性がある、とつねに脅されているわけだ。だがその「自分が特別だと感じられるっぽい」ものにも、一定数以上の「えらいひと」がゴーサインを出さなければ、それはアリにならないという不文律がある。たとえばロマンポルノは、若松孝二が「発見」されるまでアリにはならなかった。もっといえばマンガもそうなのだが、わたしが気付いたときは、もうすでにアリになったあとだった*1。同じ要領で、いつかギャルゲも、誰か(何か)が「発見」されることでアリになる日がくるのだろう。歴史は繰り返す。戦後、いったい何人の人間が「わたしは最初からこの戦争は間違ってると思ってました」と騙ったのか、わたしに知るすべはないけれど。オタクという語が蔑称でしかありえないのなら、わたしは喜んでその名をつかう。なぜならわたしは、ナチュラルボーン・ギャルゲーマーだから。ギャルゲーマーとは、新世紀の星菫派である。本当に「新しいもの」は、そのフォームすら掴めない。ノイズミュージックが、あらゆる予定調和を拒否したフリージャズやパンクから生まれてきたのだということを忘れてはいけない。そして、ページめくり機の演奏を音楽だと認めた人間が、果たして何人いたのか想像してみてほしい。だからこそ、それらは揶揄されてしかるべきなのである。

世の中には、いたずらに過去を懐かしがるスノッブどもがいる。そんな連中は、釘ひとつ打てないし、計算尺ひとつ使えない。ぼくは、できれば、連中を、トウィッチェル博士のタイムマシンのテスト台にほうりこんで、十二世紀あたりへぶっとばしてやるといいと思う。
ロバート・A・ハインライン夏への扉』より)

でもねえ、ダン。わたしはあなたが、ガールスカウトの制服を着たリッキイのひざこぞうを懐かしく思い出すのとおなじように、ゲイルズバーグの春を愛してしまうんだよ。真のオタクへの道のりは、果てしなく遠い。その道連れに、スプーン一杯の想い出ぐらいは許されるだろう。

*1:というわりには、たとえば『草迷宮・草空間』はよくても『ちょびっツ』はダメなんだろうなあ。そんなことないのかな?