幸福な無名時代

skb_mate022005-10-09

1. ここ数カ月、精神的にかなり安定していたのだけれど、やや情緒不安定になりかけているような気がします。ちょっと油断して、見なくてもいいものを見てしまったり、聞かなくていいことを聞いてしまったせい、だと思いますが。もともと川原泉の自画像のようにボケラ〜ッとした性格なので、精神的な外圧には強い方だと思うのですけど、意外にちょっとしたことで膝から崩れ落ちたりすることがあります。おそらくは、「そこを責められると弱い」心的アキレス腱みたいなものがあるのでしょう。自分ではそれがどこなのか、よくわからないんですけど。こんなことを書いていると、まるで自分が「ガラス細工のように繊細なハートを抱いたナイーブきゅん」になったようで気持ちいいですね。クセになっちゃいそうです。しかしてその実態は、厚顔無恥で薄っぺらいただのオッサン。


2. 「gd、あるいは田舎司祭の日記*1中の記事「2005-10-06 “いたいけな”少女」*2に、「ハンサム★マンガ」からの引用を追加したのだけれど、ひとつの記事としてまとまりに欠けるうえ、見た目もよろしくないので削除。よって、こちらで補完。

我々は、決して意図的にマッチ売りの少女を殺すわけではない。しかし、だからこそ問いたい。「生きている」ことと「死んではいない」ことが同じではないように、「殺してはいない」ことと「結果として死なせた」ことに、溝はあるのか?溝の中の月は、紅い。おれの手で。おれの手が。手を下そうが下すまいが、おれたちの手は血にまみれている。
ハンサム団WEB☆manga 『でたとこプリンセス』(奥田ひとし*3

我ながら内罰的なことを書くなぁと思うけれど、これが正直な気持ち。以前、当ブログのコメント欄に、似たようなことを書いたけれど*4。ただ誤解されたくないのは、その善し悪しについて論じたいわけではない、ということ。それって、言ってみれば自然界の食物連鎖を、倫理的にうんぬんするようなものですから。生命倫理もそれに近いから、いつまで経っても結論が出ないわけでしょう。受精して何週目からが人間だ、とか。ただ、人間はつねに<敵>を必要とする生き物で、なにかあればすぐさま外敵から<身を護る>ために<連帯>してやろうと、手ぐすね引いて待ち構える習性がありますよね。中島らもの文章に、映画館へ遅れてきた友人から、顔を合わせるなり「で、どれが悪者や?」と訊かれて面喰らったというエピソードがありましたが、大なり小なりそういう価値観に支配されているのが人間だと思います。どうしても世の不条理を受け入れられない弱さが、そういった解決の手段を選ばせてしまうのかな、と。人間にとって最大の不条理は<死>ですし。


3. 中島らもつながりでひとつ。

中島らもが本のなかで、「教養というのは、暇をいかに潰せるか」というような事をいってた。教養のない人間はお酒を飲んで時間を潰すのだそうだ。アル中の自分自身を自嘲している文章だった。教養がない、うまく暇を潰せないという点では自分も同じだと。
http://d.hatena.ne.jp/minihand/20051004

おおむね同意できる話だなと思いました。同じように「人生は壮大な暇つぶしだ」と思っていたし、今でもその考えは、あまり変わっていないから。わたしも教養などは持ち合わせていなかったですが、酒を飲むお金もなかったので、ひたすら映画館に入り浸っていました。おかげさまで、非常に鬱屈した感情を持て余すことになってしまったり。ただ、教養を介することで、それが主観だけでなく、客観的に<有意義>な行為に見えてくる、それが世にとって重要なのだろうなと思います。たとえば、かつての宇宙開発や人間型ロボットの開発などは、誰も「(生活の)役に立つか否か」まで考えが及ばなかった。というのは、それらが人間にとって、スタトレじゃないけど「最後のフロンティア」だったから。要は、夢があったわけですよ。そして、その夢を皆で共有できるだけの余裕、心の余裕があったんじゃないかな。ここで、件の<教養>について快哉を叫ばせてくれた一節を御紹介。

信条は「多様であることは常に善」と「知識や教養は所詮娯楽である。」
http://hugo-sb.way-nifty.com/about.html

巡回先のブログ「Hugo Strikes Back!」*5管理人、hugoさんの名言。「多様であることは常に善」という言葉も、分裂症ぎみのわたしにとっては救いになりました。ちょっと、初トラバにドキドキしてますが(ミクシィでは、ありがとうございました)。