夢みてもいいじゃない

skb_mate022006-03-31

自分が創作活動を続けるうえで、重要であると思われることがらについて示唆を与えられた文章二遍。

(略)この映画は、女の子の友情を描いたものだ。やっぱり女性監督だからだろう、男にはない女の子の複雑な友情構造はとてもリアリティがある。それで、真っ先に思い出したのは『オール・アバウト・マイ・マザー』という映画のある台詞。“(女は)みんなちょっとレズみたいだし”ってやつ(笑)。でも、ほんとそうだと思う。女にとって親友は恋人と紙一重。だから、いつも恋愛優先の女の子には、本当の親友はなかなかできない。(略)と、まぁ、あれこれ女の友情について思いを巡らせたのだが、そういう風にいろいろ考えさせてくれるような女の子の友情ものって本当に少ない。それはまぁ、女性監督が少ないというのがあるし、男性監督だとリアリティがなさすぎるものも多い。(そんな中で岩井俊二監督の『花とアリス』はかなり素晴らしい作品だったけど)女の友情って、かなり甘ったるいかかなり薄っぺらいものとして描かれたりするけど、この映画は、甘すぎず苦すぎず、ほんとリアル。嘘のない女の友情物語を見て、女の喜びを再発見した気分。(略)
CINEMA SAIGON vol.4:『犬猫』
http://www.rightfromsaigon.com/free/webmagazine/cinema.html

じつはまだ『犬猫』をみていないのでなんとも言えないのですが、『花とアリス』がオッケーなら、オレの書くものもオッケーなんじゃないか、と思った。あはん。いやまぁまじめな話、信者だからといって必ずしも教祖のエピゴーネンになるとは限らないし、わたしの書くものは「アクが強い」と指摘されることが多いので、ストレートに影響がみえたりすることはまずないでしょうけども。自分としては、嘘臭いぐらい徹底的に甘ったるくしたいんですけどね。どうもそうはならないみたい。エキセントリックな設定が苦手だったりするし。

(略)以前、わたしはこのブログで、女を書くのは難しい/男が書いたフィクションによって作られた『女フィルター』を外さなければならないからー、みたいに呟いていた。今回ケリー・リンクの短編一作を読み、新たに女が作った『少女像』『少女空間』のパターンが既に存在している、できつつある、のか? と思ってみたりしたのですよ。例えば以上1.2.の二つ以外にも、女系の重視、女友達の重視、幻想と現実の行き来の壁の低さ、『魔女の誇り』などもあるよ。ああ、一番、違和感があるのは、ブロックやリンクの描く少女の屈託の無さだ。凶暴さも足りないよ!(略)新たに女たちが作った『少女空間作りの様式』を定型化して使う、ことだけは避けたいです。なんだが、synchronicityというか同時代性っていうのはなー……。『少女空間を作る』って概念自体が現在ごく普通の、広く共有されている発想なんだろう。例えば、可愛い雑貨屋さん、素敵な洋服ブランド、ドール、乙女を標榜する少女のサイト。現在の少女マンガはよく知らない。(略)
死んだ恋人を捜してweblog:少女空間建築様式
http://masejunko.net/weblog/archives/2006/02/post_98.html

なんというか、この発想がすでに少女っぽいと思った。誤解をおそれずに言えば、レッテル貼りを拒絶しつつもなんらかの共同体へ帰属せずにいられないのが少女で(「きみって〜だよね」には反発するが、占いや夢判断や性格分析は大好き、みたいな)、共同体における自分の上位を躍起になって確保しようとする反面、一匹狼でもあることを標榜したがるのが少年、ってかんじかなと。ま、夢想家の皮をかぶったリアリストが女で、リアリストの皮をかぶった夢想家が男だってのは、昔から言われていることですけども。