ロシアン・ルーレット

「密室で二人の男がロシアン・ルーレットをしている」
この一行から着想を得たお話を、何人かで書いてみようという企画が持ち上がり、各自執筆に取り掛かったのは去年の秋の終り。みなさんが続々と書き上がるなか、あいかわらず仕事の遅いわたしのせいで、公開が年を越してしまいました。そんなこととは無関係に、お暇なら読んでみてよね。


ミニハンド→http://d.hatena.ne.jp/minihand/20070111
S&M→http://d.hatena.ne.jp/SandM/20070111


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額に浮かんだ脂汗をぬぐおうともせず、男はただコンクリートの床を見つめている。四方はやはりコンクリートの灰色で覆われており、ひとつだけある金属製の扉はぐにゃりと歪み、出入口としては役立たないことが伺われる。天井から下がる灯りは頼りない明度ではあるが室内の様子を照らしだしている。壁の向こうから、おそらく発電機のものと思われる騒音が微かに伝わってくる。片端にしつらえられた便器にはなんの遮蔽物もなく、まるで監獄のような様相だが、壁際に山と積まれた保存食は、ここが防空壕であることを示している。
男は中年にさしかかった東洋人で、自分の置かれた状況に、とにかく納得がいかないといった表情を浮かべている。というのも、この密室に閉じ込められたのが自分だけならまだしも、室内の中央に据え付けられたテーブルには、もうひとり脂汗を浮かべた男がいるのだ。彼らはそれなりの緊張状態にある。お互いが披瀝された身分に対して猜疑心をもっていることもあるし、なによりも自分のもつ「探られたくない部分」を嗅ぎつけられることに対して焦りを感じていることもある。それゆえ協力してこの状況から脱出する案にも辿り着けず、さりとてこのまま数週間、数ヶ月を過ごすわけにもいかない。祖国はいま存亡を賭けた戦いを繰り広げており、自分たちはその戦場で従軍している身なのである。とにかく一刻もはやくここから脱出し、ほんらいの職務に復帰せねばならない。のだが、東洋人はテーブルについた男の、テーブルについた男は東洋人の存在があるせいで、思い切った行動がとれずにいた。テーブルの男もやはり中年で、ドイツ陸軍将校の制服を着用している。室内には7月中旬の気候を反映したすさまじい熱気がたちこめているにもかかわらず、制服を脱ごうとしない。
「その上着を脱いではどうですか、少佐。」
東洋人が声をかけた。「見ているだけで暑くてやりきれませんよ。」
「君たち日本人は、もっと品位を重んじる人種だと思っていたのだが。」
 少佐と呼ばれた男が、精一杯冷ややかな視線を送りながら応える。
「もちろん品位を損なうような行動は慎みたいと思っていますがね。今は合理性がそれに勝っても仕方ない状況なんじゃありませんか?」
「君はたしか、日本大使の秘書官だったかな。時間通り、つつがなく予定をこなすことに長けているのだろう。我が家はザクセン公の末裔でね。それに見合った格式を幼少の頃から身に付けていると、環境に振る舞いを左右されたりはしないのだよ。」
嫌味をたっぷりと含んだ言葉を投げつけたあとで、少佐は軽く鼻を鳴らした。秘書官は苦々しく汗だくの顔を歪めたが、それよりも暑さへの苛立ちの方が心を占めている様子で、緩めたネクタイとシャツの襟をつまんでパタパタと風を送り込みはじめた。だがそれも気休めに過ぎず、やがて彼はその場にぐったりとへたり込んでしまった。そしてそのまま、時間だけが無為に経ってゆく。外の状況はまったくつかめず、自分たちがここから脱出できるのがいったい何時になるのか、まるで見当もつかない。男ふたりはほとんど会話も交わさぬまま、気力と体力とがじわじわと削られてゆくのみである。そしてこの場所に閉じ込められてから、半日が経った頃、少佐は秘書官に
「問題は、なぜ日本大使の秘書官がこんな場所にいるのかということだ」と水を向けた。
「そして私は、まだ納得のいく回答を示されていない」
「またそれを蒸し返すのですか。先に述べた通り、私はゲシュタポミュラー長官から、この場所で待っているようにとの指示を受けたのです」
ゲシュタポが日本大使に、いったい何の用があってこんな場所へ呼び出すというのか、私にはさっぱりわからんな」
「貴方こそ、いったい何の用があってこんな場所にいたのか、私には全くわかりかねますね」
挑戦的な秘書官の視線をやり過ごしながら、少佐は空々しく話題を変えた。
「しかし、あの爆発はなんだったと思うかね」と訊ねた。「我が第三帝国の総司令部が敵の襲撃にあったなど、とても考えられん」
「だが、実際にあったことでしょう。コミュニスト共の手によるものか、英仏の工作員の仕業か、ユダヤの神秘がもたらした奇跡なのかはわかりませんが。存外、内部の者の手によるテロという線もありそうじゃないですか」
秘書官の瞳に、再び挑戦的な光が灯る。
「君は反逆者が中枢まで入り込んでいたと言うのか。我が帝国も見くびられたものだな」
「貴方は陸軍の人間だから、実情をまるでわかっていないのではありませんか」
少佐の顔色が変わった。
「それはどういう意味だ。まるで帝国内に反逆者が溢れ返ってでもいるような言い草だが」
秘書官は少佐の剣幕に気押されながらも、自分の持つ情報の確度にたいして自信を込めつつ、若干の優越感をちらつかせながら「その通りです」と断じた。
「我々がつかんでいる情報によれば」
一旦言葉を切り、軽く咳払いをしてもったいを付けるように、少佐の方へ軽く視線を送りながら「かのアフリカ戦線の英雄、ロンメル将軍にも嫌疑がかけられているということです。彼が反逆者たちにとってどれほどの精神的支柱となるかを考えれば」視線を外す。
「事態がいかに深刻なものか、察しはつくでしょう?」
苦虫を噛みつぶしたような少佐の表情をちらと伺い、秘書官は満足そうな笑みを浮かべた。
「下らん、実に下らん話だ。祖国の一大事だという時に、なにゆえ内輪揉めの波を広げる必要がある」
「おや、意外ですね。私の話をそんなにあっさり鵜呑みにしていいのですか?」
「ここで私をかついだところで、君に何の利がある。それにその手の風聞なら、私の耳にもうんざりするほど入ってきていたさ。だが、いらぬ心配をすることなどありはしない。偉大なる総統閣下が、必ずや我々に千年王国をもたらしてくださるからな。そして極東の山猿にすぎん君たちにも、その栄光の一翼を担いうる権利が約束されているのだ。誇りに思うがいい」
「まったく貴族様は、日和見主義でいけませんね」秘書官は、先刻の辱めをそそぐような口ぶりで、少佐の発言に水を差す。「日本にも神風という伝説がありましてね。大本営はそれを現代に蘇らせ、あまねく臣民にそれを信じ込ませようと躍起になっている最中なのですよ。だが、我々は現実の世界で戦争をしているのです。血と鉛でもって、世に新たな秩序を打ちたてようとしているのです。それを」
言い終わらぬうちに、血相を変えた少佐がホルスターから金色に輝く回転式拳銃を抜き放った。
銃身には飾り文字で「赤い血と鉄の心」と彫られている。
「総統閣下から賜った愛銃、ノートゥングだ。わかるかね。これこそが力、正義をもたらす鋼の牙だよ。貴様の如き存在が、軽々しく口にしてよいものではない。三流民族が新秩序を打ちたてるだと?笑わせるな。我々アーリア人にしか為し得ぬことを、山猿ふぜいが夢見るなど。聞いてあきれる。まるで出来の悪い冗談だ」
「えらくムキになりましたね。言い回しもさっきまでとは打って変わって、まるで判で突いたような具合だ」
少佐の肩が、ぴくりと動いた。
「何が言いたい」
「いえ、貴方は何かを隠している。そこに触れられぬよう、絵で描いたようなナチ党員を演じているようにしか見えない。核心に迫られる前に、私を封じ込めようとしている」
「鎌をかけているつもりか?命乞いにしては、下手な芝居だと思うが」
「どうでしょう。ひとつ、賭けをしてみるというのは」
「賭け?」
「その銃に、弾丸をひとつだけ詰める。弾倉をルーレットのように廻し、セットしてから一発ずつ、自分のこめかみに当てがって引き金を引く、という寸法です」
少佐の瞳がぎらりと光る。
「一発生き延びるごとに、お互いの隠しごとをひとつずつ明かしていく、というわけか」
「察しがいいですな。生き残るのはひとり。機密の漏洩を心配することもない、な
にしろどちらかはオダブツなんだから」
「オダブツ?それは何だ」
「神に召される、という位の意味ですよ。それよりどうですか。乗るか、逃げるか」
「挑発しているつもりかね」
「聞いたままで」
少佐は肩をそびやかし、不敵な笑みを浮かべながら、よかろうと答えた。
「運命の女神が、山猿ごときに肩入れするとは到底思えん。いずれにせよ、貴様は私を不愉快にさせすぎてしまったのだ。だがこの状況で」
室内をぐるりと見渡す。
「つまらぬ議論を交わしていても仕方がない。ここで得るものがあるとすれば、貴様が犬のように嗅ぎ回って集めた噂話程度のものだ。暇つぶしくらいにはなるだろう」
言いながら、ノートゥングをテーブルの上へ置く。
秘書官はゆっくりと立ち上がり、少佐の向かいに腰かけた。心なしか、辺りに張り詰めた空気が漂い始めたように感じられる。額には、暑さのせいでない汗が浮き出し始めた。少佐が手際よくシリンダーを外し、弾丸を一発だけ装填する。そしてルーレットのように回転させてから元に戻し、再びテーブルの上へそっとノートゥングを置く。
「では、私から」
秘書官が手を延ばす。
「待て」
目だけを上げ、少佐に視線を据える。だが、少佐の口は、何の言葉をも継がない。再びゆっくりと手をのばし、グリップに手をかける。ずっしりとしたそれは、本当に純金で造られているかのような威容を誇っている。生命を奪うもの。そのためだけに鋳造された、破壊にのみ機能する正義の鉄槌。果たして、義はどちらにあるのだろう。秘書官は引き金に指をかけると、銃口をゆっくりと自分のこめかみにあてがった。ごくりと唾を飲み込む。なかなか人差し指に、力が籠らない。心の中で般若心経を唱える。私は克ち、そして勝つ。死は、つねに足許にあって、隙あらば温かい肉体を引きずり込もうと昏い口を開けて待ち構えていた。その貪欲な冥府のものどもを退け、調伏してここまできたのだ。何を畏れることがあろう。意を決した秘書官の眼に、鋭い光が宿った。数々の業から己の尊厳を守らんがため、その腹に刃を突き立ててきた侍のそれであった。奥歯を噛み締めながら、秘書官は指先に力を込める。
「どうやら、戦乙女たちは多忙のようだ」
憔悴しきった表情の秘書官を見据えながら、少佐がつぶやく。そうでなくてはつまらない、と返してみても、我ながら虚勢にしか聞こえない、と秘書官は思った。命を賭けることの重みを、今初めて実感したのである。無理からぬ話だ、と彼は自分を納得させようと努力した。
「では約束通り、ひとつ教えてやろう。私は、じつは陸軍の人間ではない。アプヴューア(諜報部)の者なのだよ。今日は、カナリス長官から直接の指令を受けてこの狼の巣へ出向してきたのだ。貴様が指摘してみせた通り、夏の訪れとともに、反逆者どもの活動も活発になってきていてね。この辺りで、ひとつ大博打を仕掛けてくるのではないかという長官の読みを受けて、私がここへ遣わされたというわけだ。そうしてみると防空壕に入り込んだ東洋人を発見し、ほどなく原因不明の爆発が起こった。どう考えても不自然だ。貴様に大きな嫌疑がかかっていることに変わりはない」
少佐はちらとテーブルの上へ目を遣り、無造作に一連の作業を終えてから銃口をこめかみにあてがって、ためらいなく引き金を引く。ガチッという鈍い音。むしろ秘書官の方が、手に汗を握っていた。たっぷりと蔑みの色を湛えた眼で縮こまった男をねめつけながら、少佐は「では喋って貰おうか」と促した。
「私も大使の秘書官というのは仮の肩書きで、実は憲兵隊特務機関の者なのです。かねてより反逆者の蔓延に頭を悩ませていたミュラー長官から、内部調査をたびたび依頼されていましてね。今日は貴方と同じく、反逆者たちの破壊工作を阻止する作戦への参加を要請されて、ここへ来たのです」
そこまで言うと、秘書官はおもむろにノートゥングを掴んだ。
「アプヴューアのカナリス長官が反ヒトラー派に名を連ねていることも、貴方がその忠実な部下で、個人的な指令を受けていることも調査済みです。ただここへ来た段階では、貴方の顔と名前が一致しなかった。御自分から名乗っていただけるとは」
そして少佐の額に狙いを定め、引き金を引いた。轟音が響き渡り、やがて静けさを取り戻す。また時間が流れはじめる。予定では、すぐにも救助がくるはずだった。秘書官は、ただ待った。だが戦局の悪化から、破壊された防空壕の修復は見送られ、中にいる人間の存在も忘れ去られた。その密室が再び開かれたのは、終戦後、ソ連兵の手によってであった。