innocence & peppermints

skb_mate022007-06-08

奴股が『ロクス・ソルス』を読了した旨をしたためているのを読み、そういえば『イノセンス』絡みでそんなことを日記に書いたなぁと思ってサルベージ。

わたしはまだ『イノセンス』を未見なのだが、押井守が作中でリラダン未來のイヴ』(Ali Projectもタイトルで引用歴あり)『残酷物語』、ルーセルロクス・ソルス』をバシバシ引用しまくっていることをついさっき知った。わたしの知る限り、いままでにそんなことをした人物は一人しかいない。菅野ひろゆきその人である。というわけで、むちゃくちゃ期待。さて、いつ観にいこうか・・・。
スペースケンカ番長 2007 - ジサツのための101の方法

おお、そうだよ、菅野ひろゆきだよ。テレビドラマ『探偵物語』と高橋葉介『夢幻紳士』をミックスしたようなタイトルを冠された彼の作品『探偵紳士』は、小竹信節がつくったような機械仕掛けの人形だの屋敷だのが好きな人にはたまらないつくりになっているうえ、理系ネタに滅法強い彼の資質も相まって、とてもおもしろいものに仕上っていました。そしてプレイし終わったあと、それらのイメージの出典が知りたくなるという塩梅。そういえば映画『狂った果実』が大ヒットしたおり、監督を務めた中平康は「ヒットの要因は、素材である原作にスリル、スピード、セックスという3要素がもれなく織り込まれていたためであり、自分たちの手になる演出などまるで意に介されていない」とボヤいたそうですけど、『イノセンス』はほぼ原作の影も形もわからなくなるくらいに手が入れられており、なかでも「義体化するとはいかなることか」という問題に焦点があてられていたため、まさしく「意を介さないわけにはいかない」作品となっていました。その辺り、以下リンク先にて松岡正剛が思い 入れたっぷりに解説しています。

松岡正剛の千夜千冊『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン

文中、とくにわたしの目を引いたのは『こうあってほしいと思う映像場面を徹底して超構造化し、細部にいたるまで超トポグラフィックに仕立てていた。これは作品を設定した段階での「世界定め」が並々ならぬ計算で仕上がっていたということで、つねに部分と全体がネステッドな「意味の形態学」によって相依相存するように作られていたということだろう。(略)『イノセンス』――。これは21世紀の押井リラダンが掲げた映像音響版『未来のイヴ』なのである』というくだりで、なんだかややこしい言い方をしているけれども、わりとまっとうな映画評なんじゃないかなと。で、思い出した記事がひとつありました。ちょっと長くなりますが、引用します。

ここで、榎本氏は、現在の映画界は、ヌーヴェル・バーグの延長線上にはなく、全く異なった性質を帯びており、その状況を据える言葉がまだないのだと言われました。榎本氏はその性質を表すキーワードとして“動物化”や“萌え化”という言葉を提示しました。今の社会は、誰もが共有する価値観や制度が崩壊し、人々の間に大きな物語が存在しなくなっている。表面的な記号の戯れが蔓延し、背後に機能や実質がないもので溢れている。この状況を映画に照らし合わせると、例えば作品の中身がひとつひとつのカットを規定するような従来の考え方が希薄になり、瞬間的な映像のかっこよさがより受け入れられるような時代になった。(略)今の観客は映画をハイテンションになるための装置として消費する傾向が強く、難解なストーリーは避けられ、メッセージ性は存在しないか、あったとしても便宜的なものになり、映像の断片に反応する特徴があると指摘しました。(略)また、映画評論の影響力が薄れ、映画を消費者に見てもらうには、マーケットの中で強い光で点滅していないと、表層に反応する動物化した今の観客は消費行動に移らなくなっている。
映画ビジネス学部ログ: 榎本憲男氏セッションレポート

要するに『イノセンス』は『作品の中身がひとつひとつのカットを規定するような従来の考え方』を正確に実践できていた映画ですよと言っているだけではないかと。しかしこの榎本憲男氏の説はもうまんま大塚英志『物語消費論』と東浩紀動物化するポストモダン』というかんじですが、それが映画関係者の口からでたという点が興味深いです。といいますのも、前述の『狂った果実』はトリュフォーに影響を与えてヌーヴェル・バーグ勃興の契機となった作品といわれており(じっさい、トリュフォー企画のオムニバス映画『二十歳の恋』には石原慎太郎が参加している)、それを撮った中平康がもっとも重要視したのはメッセージや意味ではなくスタイルとテクニックであり、その作風はモダンかつスタイリッシュかつスピーディだったのです。さしづめ、第2の浮世絵と印象派の関係といったところでしょうか。たとえば、カトリーヌ・スパークが主演した62年のイタリア映画『狂ったバカンス』には、若者たちがムッソリーニの演説をレコードで聴くシーンがありますけども、そこにあるのは「とりあえず現体制に楯突くポーズとして、なんとなくムッソリーニを引っぱり出してみた」という、「背後に機能や実質がないもの」だったと。すなわち中平康は、「瞬間的な映像のかっこよさがより受け入れられるような時代」にこそ、その存在が求められる演出家であったといえるのではないでしょうか。数年前の岩井俊二も、「文章で語り尽くせる性質のものを、わざわざ映像にしたりしない」という旨の発言をしており、映画評論にたいする不信感を露にしていました。


すっかり話が脱線してしまいました。『ロクス・ソルス』の巻末には、「ルーセルはかつてラヴェルとともにパリ音楽院で音楽を学んでいたのだが、教官から全く正確な機械仕掛けのように演奏すると評されていたいう興味ぶかいエッセイが寄せられています。エッセイを書いているのは、自身も現役のピアニストでありつつドビュッシー研究で博士号を取得した青柳いづみこという方でして、ルーセルラヴェルのような音楽家と作家の関係をまとめた『音楽と文学の対位法 ステージからの比較芸術論』という評論集を、去年の9月に出版されています。ラインナップはモーツァルトムージルシューマンとホフマン、ショパンとハイネ、ワーグナーボードレールラヴェルとレーモン・ルーセル、そしてランボードビュッシー。激しく興味をそそられる内容ですねー。
青柳いづみこの MERDE日記:10冊めの著作が出版されます!
全く正確な機械仕掛けといえば、どうしても連想してしまうのが盲目のジャズピアニスト、レニー・トリスターノです。リズム・セクションにたいし、とにかく正確で均一なビートを要求したことで知られるトリスターノは、クール・ジャズのなかでも取り分けクールというか、もはやフローズン・ジャズとでもいうべき演奏を目指していたようなのですが、スロー・テンポで録音したテープの速度を上げて再生するなど、ミュージック・コンクレートの手法を使ったりもしていたのです。そういう逸話をピックアップすると、アルカン、ケージ、シュトックハウゼンライヒなどの系譜に連なる作曲家のようにもみえてきますね。またもや、そのあたり詳しく書いているページを貼っておきます。

Lennie Tristano / The New Tristano

ちなみに上記ページのみならず、ジャズにまつわる文章ならどこにでも名前の出てくる評論家、レナード・フェザーにはかなりかわゆい娘さんがいまして、彼女はジャズヴォーカリストとして活動しています。78年にリリースされたジョアン・グラウアーのアルバムで歌ったのがデビュー作なんだけど、たしかコンコルドから出ていたアルバム、これがもう素晴らしい内容で。まぁジャケも込みなんですけど。でももうレコード棚のどこにあるのかわからないうえ、イメ検かけてもジャケ画像が見つからないんですよ。で、彼女の公式サイトを覗いてみたんだけど、いまは主に作詞家として活動しているようですね。つうか『天地無用!』の英語版まで作詞してるんかい!わたしが気にいる人って、なぜかまわり回ってアニソンに関わってることが多いなぁ。不思議な縁をかんじます。

Lorraine Feather.com