ひそやかにキララ

skb_mate022007-06-25

1. 結界師 第25話「時音にイケメン」を視聴。放送開始以来、デレ含有率ゼロでひた走る時音さん、満を持してツンツンキャラの本領を発揮。その女王さまっぷりを余すところなく開陳しておられました。彼女が通う烏森学園では、癒し系として知られているという設定なんですが、もうバレバレのような気がするなぁ。別に本人が癒し系を標榜しているわけじゃなくて、周りが勝手にそういうイメージを抱いているだけなんですけどね。あーカプなら断然、正守×限ですね。その道のサイトによると、限にいろいろといけないことを教える正守ってのがデフォルトだそうです。限以外だったら正守総受けの方向で。


2. バンダイナムコゲームスの「Side-B・N コミックWeb」で、アイマスのオリジナルコミックが連載されています。要チェック。ゼノグラシアはいまのとこ、第5話「冷たい手、温かい手」がマックスだったなという印象。え、春香と千早の全裸同衾はどうだったって?そんなエサにオレは釣られないクマー・・・あと、ひとひら 第11幕「笑顔が・・・好き!!」ね。あれも最高によかったです。ボットボト汗かいてやりましたよ。最終話はあれですね、これなんていうベルと野獣のダンスシーン?にびびってしまって。よかったのはよかったんですけど、ちと演出過剰っていうか、カメラワーク凝り過ぎかと。
Side-B・N 連載コミック アイドルマスター


3. おもしろい記事を読ませていただき、考えたことなどをメモ。

男の子みたいに単語の意味で論理的に主導していくんじゃなくて、言葉をとりあえず並べて全体からなんとなく動いていく会話。互いが一方的なのに会話が成立している。「何かだるぅ 何食べる 愛してる」のくだりはまんま女の子の一方的な会話の再演だし。(一人で言ってるのではなくて「何かだるぅ」「何食べる」「愛してる」を別々の女の子が言ってると連想するとかなり女の子の会話っぽくなる)で、会話の一方通行が極限まで達したところで「いい加減にしなさい」と誰かが収拾のつかない会話を強制終了させるわけだ。
モノーキー -「もってけ!セーラーふく」の歌詞って女の子同士の会話そのものじゃん。

女の子って連想ゲームが大好きですよね。そうして列挙された可愛いもので、脳内や自分の部屋を満たしていく。それぞれが自分だけの宇宙百貨を作り上げる。発信元は群体なんだけれども、収束する先は個体っていう。男の子の場合、列挙されるものはあくまで周辺情報に過ぎないと思っている。それそのものは本質じゃないんだと。それらを抽象化していった先に見えてくる、真理的なものに到達するための手段として会話する。だから競争みたいになったりするんですね。共通認識を誰が発布するかで、その後の力関係が変わってしまうから。つまり発信元は個体なんだけれども、収束する先は群体だと。もちろん、ざっくりやるとそうじゃないですかねって話ですけど。

男の人の場合は、みんなでキャピキャピしゃべったりとかは、あんまりしなくて、そういうシーンを書く時に、ホモ臭くならないよう非常に注意を払わないといけないんです。だけど、女の子の場合は、ものすごく深い内容まで、みんなでワイワイ話しても平気なんですよね。だって、女の子はそういう生き物ですから。女は、しゃべってないと死にますから。
蔵出シムーン ノベライズ編 岡崎純子(脚本家・小説家)第2回

しゃべってないと死ぬって、明石家さんまみたいですね。ていうか、お笑い芸人が女性にもてる最大の理由はそれのような気がします。

近年、百合漫画の数は昔に比べ増えてきました。それにより、まだまだ毎月の新刊の数などは少ないながらもジャンルとして多様化しているんですよね。大きく分けると”男性向け”表現と”女性向け”表現で描かれている作品があります。”男性的・女性的””男性寄り・女性寄り”という言葉の方がしっくりくるかもしれませんが、ここでは”男性向け・女性向け”として書いていきます。
真・業魔殿書庫 - 百合漫画の”男性向け”と”女性向け”をちょっと考えてみる

百合ものはその性質上男性が感情移入しにくいという特徴がありますし、さきほどの要領で大づかみに分けてしまうと、女性の興味が主に心象に向かうのに対し、男性の興味は主に現象に向かうという特性も挙げられるかと思います。たとえば、かつてSF小説が女性にとってとっつきにくいジャンルだったことを憂いて―ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが男性名を名乗っていた理由からもそれは容易に想像できる状況ですが―アン・マキャフリイは、特に少女へ向けて『歌う船』を書いたと言っています。そんなことを考えていて、もうひとつおもしろい記述を思い出しました。

(加納朋子の著作である)『ななつのこ』をお読みになった方の中には、その設定において、読書好きの女子大生「私」を主人公にした北村薫氏の一連の作品(『空飛ぶ馬』『夜の蝉』等)に似通った点が多いと感じた方がいらしたかもしれない。(中略)だが、両者を読み比べた時、作品から受ける印象はまるで異なっている。(中略)(男性作家である北村薫)氏の目はヒロインの成長を深い興味を持って見守っているようなのに対し、駒子は作者に見守られていない。(中略)彼女は、作者、加納朋子さん(駒子は数年違いで作者を追っている)にちょっと手を引いてもらいながら、一緒に、ひたむきに生きているという気がしてならない。駒子は、まだ真新しい加納さんの生き生きとした残像なのだ。
(加納朋子『魔法飛行』へ寄せた有栖川有栖の解説文より)

じつはその昔、ある女の子に「少女マンガを読む男って、こっちをじっと観察しているみたいで気持ち悪い」と言われたことがあります。でもその子は、ジャンプも大好きだったというオチ。その自意識こそが少女性なんじゃないかな。そういえば榎本ナリコが学生の頃、電車の中で見知らぬオヤジに手を握られたことがあるのだけど、そのとき「手ぐらいなら握らせてあげてもいいか」とそのまま放っておいたことがあって、で、今ではその「あげてもいいか」と思える傲慢さこそが、少女性だったように思うというようなことを『センチメントの季節』のあとがきに書いていませんでしたっけ。少女性を賛美する風習って、たとえばオーストリアやドイツのディアンドルやトラハテンであったり、フィンランド夏至祭であったりという具合に、ゲルマンに集中しているような気がします。あるいは女性を霊感の源と賛美したラファエル前派。もちろん、少女に思い入れる人たちはそれこそ星の数ほどいたのでしょうが、それが伝統にまでなった例はあまりないような。