もし、私が公女様だったら

1. NHK-FMのジャズ番組で、モントリオール出身のニッキ・ヤノフスキーが、エラ・フィッツジェラルドのトリビュート・アルバムでレコーディング・デビューを果たしたことが紹介されていまして。若干13才にして超絶技巧を身につけているだけでなく、おっさんファンをニヤニヤさせる古いネタなんかもさらりとアドリブに織り交ぜたりする老成したかんじに心奪われてしまった次第。そういやビリー・ホリデイも若い頃は、ジャムセッションに明け暮れるむさ苦しいヤング・ライオン共の、清涼剤的きれいどころっていう存在だったはず。いや、むしろ連中が繰り広げるインタープレイの応酬に萌えていたのかもしれませんけども、と、ビリー・ホリデイ腐女子説をぶち上げてみる(問題発言)。それはさておき、番組をいっしょに聴いていたミニハンドさんがさっそく動画を紹介してくれたことも手伝って(いわく「大昔の美空ひばりみたい」とのこと)、頭の中はにわかニッキ・フィーバーといったところ。
YouTube - Nikki Yanofsky / Airmail Special
YouTube - Nikki Yanofsky Sings It Don't Mean a Thing...
上が件の番組で紹介されていた曲、下がミニハンドさんの紹介してくれた曲です。いやー少女って、ほんっとうにいいもんですねぇ。そんなことしか言ってないような気もしますが。


ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)

ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS)

2.『ガンスリンガー・ガール』や『ブラック・ラグーン』、あるいは『隣の家の少女』に連なる、げんなりした気分に叩き落されつつも目を背けられない物語。いまはそうでもないですが、もともと自傷癖のあった自分は、こういう物語にふれることで、感情をかき乱されつつも同時に安心できるのではないかと思います。すさまじい虐待を加えられる少女を目にし、彼女らに同調することで、自分の奥深くに巣食う原罪意識を贖おうとしているのではないかと。あるいは『不死者あぎと』における、厳しい生活に耐える修道女たちと、その糧になった聖女ナトゥーラを、同時にその身へ宿そうとする作業のようなものだと言っていいかもしれません。しかし、そこに精神性などなにひとつなく、あるのはただ動物としての「食われることへの恐怖」と「飢えることへの恐怖」に過ぎません。大仰な演出をつけられた通常のドラマであれば、苦しみからの解放や、ゼロからの立身出世といったカタルシスが描かれたりするのですけれど、当時の少女たちは、社会にとってお荷物以外のなにものでもなかった。だから、ここにそんなものはなにひとつないのです。死んでいく少女たちは、誰ひとりとしてオフェーリアにもなれません。自己愛や欲望が、脂にテラテラと光りながらのたくっている世界。だがそれゆえに、それぞれのもつ気高さが試される世界。たとえば『エマ』で、人買いに連れ去られた少女のエマが、やがてジェントリの妻になることで、新たな試練に立たされる苦難のループを思わせます。『赤毛のアン』を題材にしてこんな物語を仕立て上げるとは、まるで岩井俊二みたいだなと思います。それにつけても考えさせられるのは、男性の性衝動〜破壊衝動は、なぜにかくも熾烈なものなのかということ。それを言うなら女性の嫉妬心もなのだけれど。