ティモテ

skb_mate022008-01-20

1. 1年前、隣のおじいさんが亡くなったと思ったら、今度は向かいのおばあさんが亡くなったそうです。亡くなる少し前に廊下で倒れて大騒ぎになっていたのだけれど、保健所からきたヘルパーさんの「病院へ行きましょう」というすすめを「行かない」と突っぱねる姿が印象的でした。いちどわたしの部屋を覗き込み、萌えグッズの数々を目にして「まぁ、かわいくしてるわねぇ」と言ってくれたことが思い出されます。おばあさんも部屋の入り口に阿波踊りかなにかを踊る少女の絵を飾っていたので、「それもかわいいじゃないですか」「ありがと」なんてやり取りをした程度なのだけれど、それでもそれなりの重さを持った死として受け止められたような気がします。次いで、どの部屋のどんな人なのかはわからないけれど、きのうも亡くなった人がいるらしく、救急隊員と管理人さんが「手遅れでしたね」「やっぱり寒くなるとねぇ」なんて会話を交わしているのに「そんな、天気の話をするみたいに」と心の中で突っ込みを入れつつ、現代に生きる我々の目には見えにくくなっているだけで、人の死は日常に寄り添っているものなのだなぁと実感しました。


2. 『リリイの籠』(豊島ミホ)、『雨の塔』(宮木あや子)を読了。女の子同士って、むずかしいけれどやっぱり特別。自分の中のドロドロとした悪意を封じつつ、向けられる悪意には身を硬くして内なる花園に遊ぶ。求めたい、哀願してしまいたい、ともすればくずおれそうになる脚を奮い立たせつつ、気丈にふるまう少女たち。人形のように愛でられることを望みつつ、ねっとりと絡みつくような性欲をきっぱりと拒絶する少女が、気高さや気品を失わないもうひとりの少女に、あらかじめ失われた半身を見出す瞬間。それは宝石などを遥かに凌駕する美しさです。なぜならそれは一瞬の輝きだから。


3. こんなラジオ番組があったんだにゃあ。mp3を上げてくれているので、今でも聴取することができてありがたいっす。

これまで「Life」では、80年代の「バブル」、そして殺伐の時代としての「After'95」など、ある特定の時代と、現代との関わりを何度かテーマにしてきました。今回はその流れで、「1989年から1994年」という時代がテーマです。冷戦の終結(89年にベルリンの壁が崩壊)、バブル崩壊を経て(東証平均株価の最高値は89年の暮れ)、1995年(阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件)にいたるまでの時代、何が起こっていたんだろう?「バブル」の回では、その頃はバブルの余波で、ジュリアナとかバブリーな空気が残ってた、という話が出てましたけど、この時代、他にも色んなことがあったんじゃないだろうか。イカ天(後期バンドブーム)、渋谷系ダンス甲子園、クラブ文化、インディーズ雑誌、「DA.YO.NE」、etc...この時代、80年代のアンダーグラウンド文化が一気にメジャーになる一方で、今で言う「サブカル」のルーツになるような要素が、マイナーながらも熱気を帯びていました。というわけで今回のテーマは、「'89-'94」。あまり語られることのないこの時代には、日本でもイギリスで起きた「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に呼応する動きもあった、という人もいるくらいで、きっと今に繋がる色んなことが起こっていたに違いない。そんな、普通に振り返るだけでは見えてこない「90年代前半」の姿に迫ってみようと思います。
文化系トークラジオ Life: 2006/12/23 「'89-'94 The Second Summer of Love in Japan ?」 アーカイブ

リアルタイムの人にとってもそうじゃない人にとっても、おもしろくてためになるんじゃないでしょうか。mp3を落として聴くのが面倒だ、というものぐさなあなたは。

「文化系トークラジオ Life」まとめWiki - '89-'94 The Second Summer of Love in Japan ?

上記リンク先にて、文字起こしされたものを読むこともできますよっと。いやーこの頃って、青春ど真ん中でしたよわたし。


4. しばらく前まで文化系女子を標榜する人たちのサイトであーだこーだ言われていただけの(ような気がする)「モテ・非モテ」なる話題、本田透酒井順子の泥試合だの電車男だのを経て、いつのまにやらオタにとっても看過できない大きなトピックになっていたようです。そうは言っても百合至上主義のわたしにとって、異性愛者のリアル女性、あるいは男性がモテようとモテまいと、そんなことはカーボベルデGDPぐらい縁遠い話題であり、まるで関心もなかったわけですが、こうも裾野が広がってくると、自分の興味をひく言説も出てくるというものでして。

「モテ」というのは、字義通りモテなのではない。「関係性ですべてが判断される時代」のことだ。関係性がすべてならば、それがもとから得意な女性はさらに「それだけ」になり、不得手である男性には、立場がなくなる。(略)問題は、すべての女性誌がそんなであり、すべてのファッションやノウハウが「関係性で幸せを感じること」という女性が大好きな主題と消費にダイレクトラインでつながれ、あまつさえそれ以外の女性誌はない! ということなのだ。それがあまりにあまねきため、かつ経済貢献しているため「関係性に参入してこない男は弱い!」とか「男はオタクに逃げた」とか女が平気で言い出す。自分の縁遠さを他人のせいにしているのだが、他ならぬ市場言語が自分たちを侵していることには女たちは気づこうとしない。ちょっとでも考えてみればいい。他人を貶めて自分の立場を保とうとする人に、貶められた他人が魅力を感じるか? 言っとくがすべての男は広義のオタクなのだ。(略)女性誌のヘンな感じは、「モテたい」と言いながら、目配りは圧倒的に同性の視線に行っていること、これに尽きる。それは横並びの相互監視社会を、きわめつけに強化して女性に提供している。多くの女性にとって、現実はハードルが高すぎると感じられるかもしれない。本当は、「幻想のハードル」が天井知らずに上げられているのである。(略)あなたが女性なら、モテに複雑なノウハウはない。そもそも男性が単純で、それゆえにかわいい生き物であるから。あなたが男性なら、「関係性」はたしかに大事にすべきことだが、「世界の最優先事項ではない」という簡単な事実を忘れずにいてほしい。やり手営業マンばかりいても何もできないでしょ?いや、男性も女性もなくって、あなたや私が、幸せを感じられますように。
講談社BOOK倶楽部 − 赤坂真理 関係性がすべての時代

オタであるわたしは、関係性や相対性といえば、まずやおいを思い浮かべるわけですが、リアルワールドで相手の性別を問わずそれを適用していこうとする女性は大変だなぁ。なんて、思わず対岸の火事っぽい物言いをしてしまいましたが、彼女たちの矛先は他ならぬオタや腐女子、すなわち我々に向けられているのでした。たしかに横並びの相互監視社会に生きていたら、わたしみたいに好き放題はできないかもしれないですね。男性のなかにも「オレは他人にどう思われようがかまわん」「いやオレはどうでもよくない」などなど、いろんな人がいると思いますけど、わたし自身はどっちゃでもいいです。もちろん言いたいことが歪んで伝わるのは不本意だし、そこはきちんと理解してもらえるよう努力していく部分なんですけど、自分で納得いくぐらい言いたいことが伝わったのなら、相手がそれをどう思うかまではコントロールできないし、印象操作や誘導ができるほど器用だとも思っていないんで。もちろんポジティブな反応がもらえれば嬉しいし、それに越したことはないですよ。でもネガティブだったとしても、人並みにへこみはするものの、それはそれでいいんじゃない、っていう。まぁ人それぞれだし、時間が経てばポジティブにかわるかもしれないし、自分も変わっていくだろうし。でもたぶん、このお気楽さというか能天気さが、見ててムカつくのかなぁと。そういわれてもなぁ。こういう人間なのだから仕方ないですね。

「モテマニュアル系女性誌が描き出す攻略対象としての男子像」のありえなさは、エロゲに出てくる攻略対象としての女子像のありえなさと同質でした。俺は女の人は男より現実的かと思ってましたが、「男は夢を追い、女はシヴィアに現実を直視する」という図式がそもそもクリシェだったのでしょうかね。ということは一回転して、「夢見る乙女」はモテマニュアル雑誌の読者として実在する、ということか。それとも「あんなものだれも信じてないよ、ネタとして買ってるだけ」なのか。ネタを買うならもっと虚構としてちゃんと勝負してるものを買ったほうがよくないか。腐女子の人たちはそうしてるんじゃないか。
『モテたい理由』。 - 0007 文藝檸檬

しかしこの永久に交わらないであろう線と線を、無理に交わらせる必要もないかなと思うわけです。たとえばアイドルや水商売などを生業とする器用な男性たちは、攻略対象としての男子像を上手に演じてみせていると思いますし、それが演技だからといって「詐欺だ」と騒ぎ立てる女性もほとんどいないんじゃないかな。彼女たちだって、おそらく自分が萌えられればそれでいいわけでね、逆ハーレムをつくるつもりでもなければ、別にヒエラルキーの頂点を目指す必要もないわけですし。その本質はオタと大差ないと思います。ただ問題にされているのは、現実とのギャップによって生じる苛立ちを、男性に対する八つ当たりで解消しようとしているって部分なんですけど。そのへんは、「無記名的女性、すなわちエロを消費するオレ」という後ろめたさにおんぶにだっこで、おあいこってことで大目に見てもらえばいいんじゃないかな。それじゃダメですか。