スケッチブックを持ったまま

skb_mate022008-02-09

いま北村薫の「わたし」シリーズか栗本薫の『優しい密室』かといった手触りのする『青春俳句講座 初桜』(水原佐保)という小説を読んでおるのですが、ある一節に「ほほう」と。

「いいたいことをなるべく抑えて、箱と箱――物と物の間に封じ込める。その余白に思いや感情を浮び上がらせればよい。箱に入れるのは、私の思いや感情ではなく、私が目にした事実やものなのです。ものとは――形あるもの、事実あるもの、目に見えるもの――」 灰色の瞳を細めて、「俳句は思ったことではなく見たことを書く文芸だということがお判りですか? 水原さん。だから子規の《写生理論》で俳句は息を吹き返すことができたのです」《俳句》をいまの形に整えたのが子規だ。「思ったことより見たことが上に立つ。よく思った人よりよく見た人がいい句を作る。――俳句とはそういう文芸なのですよ」 その俳句の才人が、私を見て、いった。「あなたの目に映るすべてのものを大切になさい。そして、あるがままではなく見たままを心にとどめなさい」 (水原佐保『青春俳句講座 初桜』)

なぜ「ほほう」かと言うと、松本隆が同じようなことを言っていたのを思い出したから。しかしいま手元に該当書物がないため、「遠藤ビル3階 - スクリーニングキャンプ」から孫引きさせていただきました。

ぼくがまだ岡林氏のバック・ミュージシャンで彼と一緒に地方廻りをしていた時、彼と詩の話などを行き帰りの車中で交した事がある。彼は「見る前に飛べ」と言いぼくは茶化して「飛ぶ前に見る」と言ったことがあった。それは単なる笑い話に終わらず、ぼくはぼくなりに「風を集めて」と言う作品にして、それをまとめてみた。つまり「飛ぶ」、と言う動詞を、風景の中に内包させてみたい、と言うのが、あの詞を書いた動機だった。(中略)なぜぼくがこれほどまでに、風景とか、そこに隠された人間関係(つまりラブ・ソングということになるのだが)に固執するのか。残念ながら、ぼくには(そしておそらくぼくの世代には)原体験と言うものが欠落していると思っているからである。(中略)ドストエフスキーの死刑未遂事件や、戦後派のものかき達の戦争体験を、ぼくがどんなにうらやましそうな眼つきでながめることか。ぼくらにはほめたたえられる何ものもなく、信じられる何ものもなく、同時に失望する何ものもない時代に育った。ぼくらは彼らの豊饒な青春を読み、ぼくらの前にひろがっている風景を、自然を捐うことなく見つめているだけだ。(中略)ぼくは影絵芝居のように風景に透けて見えるラブ・ソングのことを考えている。それがぼくの原風景なのかもしれない。 (松本隆微熱少年』)

この感覚が、やがて岡崎京子の『リバーズ・エッジ』になって結実したというのがわたしの持論。そういや『リバーズ・エッジ』に、こずえちゃんっていうモデルの女の子が出てくるんだけど、彼女はレズビアンで主人公のハルナに惚れてましたね。そういやマスタードさんにいただいた『cutie』連載の「ROCK」にもレズビアンのモデル事務所社長ってのが出てきたり、他にも『チワワちゃん』や『ヘルター・スケルター』など、岡崎作品に出てくるモデルはほとんど全員がバイかビアンなんじゃないかって思った。モデルと女子テニスには多いって噂がありますけど、じっさいそうなんだろうか。わたしの友達でモデルやってた女の子も、バイだったりしたけど。それはさておき、「2006-06-06 白樺派と星菫派の間で、小さな雌鹿よ、あなたは罠にかかった」にて引いた『松田聖子論』を再度。

松本隆の歌詞は、さながら耳で聴く少女漫画の世界です。色鮮やかな花や果実、星に月そして海、人間の住む社会の背景に退き、物言わぬ自然と共にある時にだけ、少女は幸福なのです。なぜなら、少女は一度たりとも社会の中に迎え入れてもらったことはなかったし、むしろ社会が図(figure)であるとするなら、常に地(ground)としてしか扱われてこなかった存在に同化して生きてきたからです。(中略)「お前たちはそこにいろ」と言われたところにいて、少女は、それ以外のものをもう見ようとはしないのです。大人の男と女たち、彼らが作った無彩色の物質、日々の生活、そんなものをなぜ見なくてはならないのでしょう。花と共に在り、色と共に在り、少女は夢の中に生きているのです。大人の男たちの性的欲望のまなざしから巧妙に身を隠すために、少女は保護色の花々の中で一人夢を紡ぐのです。松本隆は、少女の中にそのような抵抗する精神を見、世界を救済する究極の回答を見たのです。少女でありながら、大人の女にやがて変貌する豊満な肉体は、松本隆の理想とする少女には絶対にあってはいけなかったのです。肉体のない精神だけの少女、明るいだけの声で少女の幸福――もちろん大人たちが作り上げたものです――を無条件で歌ってしまわないしたたかな少女、苦労して育った人間の持つ訳知り顔の世間知とは無縁の少女、そのような少女を松本隆は捜し求めていたのです。聖子にだけ、それがすべて備わっていたのです。聖子は、だから少女漫画を歌うのです。(中略)そして少女の心象風景以上にラディカルな風景というものは、この世にはないということを、松本隆は知っていたのです。「ミーハー・ラディカリズム」と「政治嫌いの音楽少年」とは、双子の兄妹だったのです。 (小倉千加子松田聖子論』)

すなわち少女とは、もともと写実性を内包した存在である、と言うこともできそうです。たとえば『赤毛のアンの挑戦』という本のなかで、その豊かな自然描写が『赤毛のアン』という作品のもつ魅力だと答えるファンが多いことに横川寿美子は着目しています。ところが、全体に占める自然描写の割合は決して大きいわけではなく(こちらもいま手元に該当書物がないため、正確な数字を引くことができなくて申し訳ない)、それにもかかわらず、当時少女であった読者たちは、明光風靡なプリンスエドワード島を容易に想像することができていた、というのです。そしてその事実は、「物言わぬ自然と共にある時にだけ、少女は幸福」であるという小倉千加子の説を裏付けているといえます。そして、それに関連するようなしないようなネタをもうひとつ。

大事なものは言わずに 心にしまい込んでた / 無口なあなたが今もとても好き / いきなり雲が切れて 空が晴れて虹が見えた / あわててあなたがスケッチをした景色 わたしにもおしえて / 10年後もあなた しあわせでいるよと / 妹みたいな背中につぶやく (牧野由依「スケッチブックを持ったまま」)

YouTube - 牧野由依「スケッチブックを持ったまま」(フルヴァージョン)
これなんですけどね。放送時のEDでは、漠然といい曲だなぁとしか思っていなかったんです。でもフルサイズを聴いて「あれっ?」と思った。「無口なあなた」や「あわててあなたがスケッチをした景色」という形容から、ここでいう「あなた」は明らかに空ですよね。部長さんとかではない。なぜなら「妹みたいな背中」をした空に向かって歌いかけられているからで、「今のわたし」は10年後のわたしであることがわかります。では「わたし」はいったい誰なのか。歌っているのが牧野由依である以上、葉月のことのようにも思えますし、空本人と言えなくもない。しかし空本人だとすると、あまりにも自己愛が強すぎる感は否めないので、やはり違うでしょう。であれば、やはり葉月か夏海なんだけど、なにしろ歌っているのが葉月の中の人なのです。葉月が空に向かって「今もとても好き」だと告白しているのです。なんという三角関係! そしてなんという秘め百合! ぶっちゃけて言います。「10年後もあなた しあわせでいるよと 妹みたいな背中につぶやく」ってフレーズを聴いたとたんすべてが明瞭になり、その秘められた想いに泣けてしまいました。いや、もしかしたら、作詞した大江千里は、そんなつもりで書いたんじゃないかもしれない。好きはあくまで友情としての好きかもしれない。しかしどうしようもなく文脈を無視したタイアップが増えてきているなか、ここまで作品本体を読み込んだ楽曲をつくってくれただけでも賞賛に値するでしょう。てかこれぜったい百合だって。間違いないですって。