少年少女 その2

chibinova:うん。で、君が「gd 田舎牧師の日記」に書いていた記事で、なかなか興味深かったものがあるので、そのへんをひとくさりぶってもらいたいんだわ。

大川渉編,『短編礼賛 忘れかけた名品』,筑摩書房,2006.のなかに彼女の『猫』という作品を読み、感傷的にあれこれイメージしていたそのままの大人/子供、すなわち少女の世界を味わった。「少女」などと言ってしまったが、作中には20代後半〜30代と思われるような女性の心境が、ほんとうにお洒落に描かれている。大川氏による解説中の「早熟というより老成した印象すら受ける」との評価に、ただただ頷く。これが18歳になったばかりの少女の作品だとは思えないほどだ。けれども大川氏の解説から逆照射して作品を味わい直すと、むしろ彼女の「少女」が見えてくる。作中の女のような洗練に徹し“たい”少女の姿。愛する男性を想う自分自身の美しさ、男性へのではない、自分自身への愛を、なにがなんでも美しく書きたい少女の姿。こういった「小説を書く少女」が、見えてくるような気がするのだ。少女だったから書き得たというような気がするのだ。
猫に自身を見出す自分に自身を見出す自分に・・・・・ - gd 田舎牧師の日記

奴股:ああ、これね。そうそう。あくまで「男性的」考察だけどね。この久坂葉子さんという人は、興味をひいた。

chibinova:どこがそんなに引っかかったのかな?

奴股:大川氏の解説によると、彼女は自分が大晦日の阪急六甲駅で自殺し、そのことが事件となり、やがて忘れ去られるありさまのすべてを、生前にすでに文章に残していたという。以前君が言っていた「横並び、しかも自分だけ」という話を非常に強く喚起させる。

神戸残照 久坂葉子

神戸残照 久坂葉子

chibinova:なるほど。自殺や事件というほどセンセーショナルなわけではないけれども、浜崎あゆみの曲にもそういったものがあって。「君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに 散って行くから・・・」(「vogue」)というような歌詞なんだけどね。ここでいう君は、あなたでもありわたしでもある。まさに「愛する男性を想う自分自身の美しさ、男性へのではない、自分自身への愛を、なにがなんでも美しく書きたい少女の姿」というものが、如実にたちあらわれているんじゃないかと。

奴股:そうやね。人によっては「いや、少年だってこういう自己愛的な美しさがあるじゃないか」と反論もするだろうけれども。同じ短編集にいかにも「少年的」と思うものがあって。

chibinova:でも、少年には対象を自己と同一化するという願望があまり見られないような気がする。澁澤龍彦の『少女コレクション序説』に収められた「近親相姦、鏡の中の千年王国」によると、「君が何であるか、いま判ったよ。君はぼくの自己愛なのだ!」というムジールの『特性のない男』の一節を引いて、「神話や伝説や文学作品にあらわれるすべての近親相姦願望が、窮極的にはここに収斂されるのではないか」とある。で、ご存知の通り、少女マンガには近親相姦をテーマにしたものが、昔からたくさんあるんだよね。それに、森茉莉の『甘い蜜の部屋』やセルジュとシャルロット・ゲンズブール父娘の「レモン・インセスト」あたりも挙げられるかな。

奴股:永山一郎「皮癬蜱の唄」と田中英光「離魂」。君の言葉を借りて言うなら、対象に同一化しようとしてもし得ず、甘えようとしても甘えられず、汚いもの、醜いもので自分を飾るしかないという状態。

chibinova:露悪趣味とはまた違う?

奴股:永山一郎は泥酔→バイクで事故死、田中英光太宰治の墓の前で自殺、という、失礼な言い方を敢えてさせてもらえば「記号」も、いかにも少年だとは思わないか?

chibinova:おお、ドンピシャだね。何かに殉じることへのヒロイックな自己陶酔。あるいは、ロックの持つニヒリスティックな破滅型という美学とか。