胡蝶の夢 pt.2
chibinova:そういやグレイトフル・デッドがアメリカで国民的ロックバンドと呼ばれていたころ、日本のまじめなロックファンにはその音楽のよさがまったくわからなかったんだって。ただ退屈なだけやん、って。で、これは生でみてみるしかないっつって渡米し、コンサートへ行ってみた。そしたら、スタジアムを埋め尽くした客が全員マリファナを決めてラリってたと。そのときはじめて、「これは決まってないとおもしろくないものなのか」と気づいたっちゅう話。
奴股:なるほど(笑)。グレートフル・デッドってむかし聴いたことあるけど、たしかによく分からんかったなあ。こないだ、っていってもだいぶ前だけど。ユセフ・ラティーフって人のレコード買って。あれは50年代だけど、どうやら後のサイケ趣味の先駆けみたい。っていっても、ほんの片鱗だけやけど。ただ、今でも潜在的には人々はそういった「あちら」を求めているんだなあということは、田代まさしさんがネットで非常に話題になることなんかからも分かる。田代さんには失礼だけど、日刊サイゾー - 田代まさし「獄中で見た景色、あのころの家族の夢」に書かれている記事って、ありありとしたイニシエーションの報告なんだと思う。いや、失礼でもなんでもなく、本人自身がイニシエーションたりたいと切に願ってのことかもしれない。
chibinova:そうなのか・・・? よくわからんけど・・・。
奴股:なんか一部のネットで「ネ申」扱いされてるらしいからな。
chibinova:そうなんだろうけど・・・それなりに売れてた人がこういうことをしたから? 嶽本野ばらとかも?
奴股:そうそう。60年代とは違う形だけど、たぶん「宗教嫌い」な人々はこういった形での「むこう」との出会いをネット上だけとはいえ求めているんだろう。あくまでネット上だけなんだろうけど。
chibinova:ああ、なるほどね。サイケデリアを疑似体験するみたいな。
奴股:イニシエーションに「擬似」はあり得ないだろうけど、それでも求めてしまう、というような。「むこう」のイメージを。
chibinova:なんつうか、薬にはまる人が多いのはわかるんだよ。まわりにもいっぱいいたし。でもおれは全然。普段は酒も飲まないし。
奴股:その違いはなんだろうね。体質にあうとかあわないとか、だったんだろうか。
chibinova:それもあるだろうし、なんというか、酔うのが好きじゃないんだと思う。
奴股:精神的な下戸、とでもいったものかな。
chibinova:そうだろうね。自分で自分をコントロールできているっていう実感がほしいんだと思う。ルーズコントロールな状態になるのがすごくイヤ。
奴股:なるほどな。ルーズさに憧れるんではなくて。
chibinova:うん。だって、もう血がそもそもルーズだと思うよ。ほっといたら、普通に犯罪者になってたと思うもん。たぶん、精神的なホメオスタシスがはたらくんじゃないかな。
奴股:自分自身に対する際立った「恐れ」が、抑制として働くのかもしれないね。逆に連続殺人とかを実行する場合、「恐れ」はまったくないようだ。
chibinova:そうやな、自分を野放しにするのがいちばん怖いな。
奴股:あくまでテレビのインタビューからの印象だけど。ある連続殺人犯が、悪を咎められたとき「それはあなたの価値観。善悪なんて相対的」とあっさり言い放っていた。それで、そのインタビューで特徴的だったのが、犯人が「オズの魔法使い」とかエルフの話とかしていた、ということ。テレビの編集なので偏った部分もあるだろうが、読み取りとしては、彼はしきりとに「向こう」へ行きたがっていた。で、死刑になるために沢山殺した、と。自分で死ぬのは怖いから。
chibinova:でもね、決定的な違いがひとつある。おれは向こうへ行きたいつうより、それを眺めていたい人間なのよ。入ってしまうのがイヤ。自分がその風景の中に混じるのがイヤ。だから女子校とか少女同士にこだわるっていうのはあるね。
奴股:そういう意味では映画はまさに格好の素材だったわけやね。スクリーンの向こうには決して行くことはできないが、ありありとそこに映って在る。
chibinova:そうそう。でもそこにはなにも「無い」。あるのは光だけっていう。
奴股:「gd - 田舎牧師の日記 2008-09-21 匣」に書いた通り、わたしの場合は殺人犯らと似てて(笑)、向こうに行きたい、と。
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chibinova:おれにも箱庭願望はあるんだけど、あくまで鑑賞対象だな。
奴股:たぶん、見ている自分を「」でくくったときの、自分自身への印象の違いがある。わたしの場合はそこに何かしらネガティヴなものがあり、そこから逃げ出したいと思っている。わたしがいくら否認したとしても。そして君の場合は、おそらく見ている自分は非常に安らいでおり、ポジティヴである。やはり、否認したとしても、だ。
chibinova:いや、そうかもしれない。コンプレックスとかそういうの、たぶんないもん。自覚がないだけかもしれないけど。
奴股:だろうね。不思議なもので、どちらの態度も「向こう」を意識している、というか強烈にそれを感じており、「向こう」なしには自分はあり得ないほどなのだ。それなのに、その「向こう」と対峙したときの「わたし」のありようは、まったく反対である。
chibinova:でも、合わせ鏡なのかもしれんよ。
奴股:たしかに。だってわたしにせよ、むこうに行きたいからといって、それを「突き破る」ことはできないと知っている。そんなことをすれば、その大切な「向こう(を映すもの)」が壊れてしまうからだ。
chibinova:いま思ったんだけどさ、恋愛にそれを求める人っているよね。「向こう」を「恋人」に言い換えるとわかりやすい。
奴股:どうしても突き進む、突き破ってしまう、ってことになるのかな。
chibinova:だってさ、人にしても物にしても、個は個でしかありえないからさ。その強烈な孤独感が、いままで種を保存させてきたんだと思うし。
奴股:そうだなあ。突き破れないと分かっていてなお、突き破りたいと思う。その破る/破れない、のところで、人間は生きていると思うね。
chibinova:うん。なに考えてんのかわかんないような現代の女子高生だって、彼女らの言い分を突き詰めれば「つながっていたい」だもんね。