夢のあとさき

skb_mate022008-10-16

1. 氷室冴子のエッセイ集、『いっぱしの女』に収録された「レズについて」の一節を引きます。

<ある時友人の披露宴で隣り合った人と『カラー・パープル』の話になり>そのときからずっと引っかかっているのは、あの、スピルバーグの映画にしてはそんなにヒットしなかった『カラー・パープル』は、私にはとてもよい映画に思えるのに、どうしてスピルバーグアカデミー賞を狙った作品だとかなんとかヘンな話題しかなかったんだろう、どうして私は、あの感動を伝える言葉をうまく見つけていないのだろうということだ。(中略)黒人女性セリーが十四歳で父に強姦され、ふたりの子どもを産んだあと、妹ネッティーに執着していたミスターにむりやり嫁がされ、そこでさまざまな性的肉体的精神的暴力をうけながら、ミスターが崇めている女性歌手のシャグにあこがれ、そのあこがれを杖にして、人生に、人間にめざめていく物語『カラー・パープル』(集英社文庫)は、作者アリス・ウォーカーの息づかいが感じられるほど迫力のある、そうして生々しい小説で、この小説を読んだあとでスピルバーグの映画をみれば、やはり、綺麗すぎて甘ったるいといった印象があるのかもしれない。(中略)女が女に憧れ、その憧れが生きる力になってゆく微妙な感情、泣きたくなるような思い−私はそういう感情が好きだし、いくつも経験している。だから、信じている。幸か不幸か、私は肉体的にはカンペキなストレートだけれど、精神的にはかなりの部分、同性愛的な傾向があり、それは断言してよいけれど、決してめずらしい特異なものではない。女が女に、その社会的成功や美しさだけでなく、その魂において、いきる姿の強さと凛々しさにおいて、心を揺さぶられるほどの感動をもらい、深く愛してゆくということはあるのだ。口ではうまくいえない、そんな感情が、映画『カラー・パープル』では丹念に描かれ、そこに、ほんのわずかの違和感もなかった。レズというと、結局、男の人が興味をもつのは肉体のカラミ的なものになってしまって、過剰なエロティシズムを背負わされてしまう“レズ的な愛情”が、普遍性をもった感情のひとつであり、ひとりの人間を救う力になりうるものとして描かれていたことに、私はほんとうに驚いたし、今も驚いているのだ。<女性映画>という言い方は、<女流作家>という言い方と同じくらい好きではないけれど、それにしても、たしかに映画『カラー・パープル』は、一面、女同士の愛を謳った映画だった。パッとした評価がなかったのは、映画評論家が男性ばかりで、たまたま女性の映画評論家はレズっぽい情感を一度も抱いたことがない人ばかりだからなんだろうか。あるいは、レズという情感を評論の場にのせるだけの土壌が、今現在、日本にはないせいなんだろうか。基本的にはサクセスストーリーの『ルーツ』に感動しながら、『カラー・パープル』を綺麗ごとのメルヘンだと切りすてるのだとしたら、そこに欠けているのは想像力ー夢を見る力だ。(中略)私は鋭い批判を理解はしても、感動はしない。私は夢によってしか感動しない。そうして、感動によってしか動かない。映画『カラー・パープル』は、そのキングの夢の向こうにある世界だった、差別された黒人社会、その中でもさらに差別されてきた黒人女性が、女同士の愛情によって到達しうるうつくしい夢、その夢を描いていました、だから良かったんです。
氷室冴子『いっぱしの女』)

ファンタジーとしての百合が、なにゆえ、いかように美しいのかを、これほどまで端的に語った文章はないと思います。


2. そしてこちらは、ご存知『O嬢の物語』の一節。

自分が何を求めて若い娘たちを追いまわすのか、Oには、かなりはっきりわかっていた。男と張り合うような印象をあたえたり、男みたいな行動によって、自分では感じたこともない女性の劣等感の埋め合わせをしたりするのは、彼女の望むところではなかった。二十歳のころ、友達のなかでいちばん可愛らしい娘に言い寄って、挨拶をするにもベレー帽をぬいだり、道を渡るにも相手に先を譲ったり、タクシーをおりるにも手をかしたりしたことがあったが、実のところ、この時は自分に自分であきれたものである。喫茶店で一緒にお茶を飲んだりする時でも、やはり彼女は自分で金を払わなければ我慢できなかった。できれば街なかでも、彼女はこの娘の手に接吻したり、場合によっては口にも接吻したりした。もっとも、それは信念にもとずく行動というよりも、多分に稚気から出たもので、世間の顰蹙を買うような行動をわざと示してやろうというところがあった。そのかわり、彼女の誘惑についに負けた甘い唇の味だとか、カーテンをひき炉辺のランプをともした午後の五時ごろ、長椅子の上の薄暗がりで半ば閉ざした目の、七宝や真珠のような輝きだとか、「もう一度、ああ、お願い、もう一度」という声だとか、指先に残る執拗な海の匂いだとか、そういったものに対する彼女の嗜好は本物であり、底が知れなかった。娘たちを追いまわすことも、彼女にとってはいきいきした喜びだった。
(ポーリーヌ・レアージュO嬢の物語』)

作品の性質上あまり語られることはありませんが、妄想によって構築された本題より、こういった部分にこそもっとも生々しさを感じるのです。