幻の朱い実

01. 『少女』(湊かなえ)読了。読み通りにキラッキラのショタも出てきたし、少女のダークフォースてんこ盛り。しかし、メインテーマがクールな由紀とヘタレな敦子という女子高生ふたりの友情だったのは嬉しい誤算。それも女性週刊誌と匿名掲示板をかけあわせたかのような悪意が渦巻く中、謳い上げるようなイヤらしさを滲ませることなく、サラッと描写してあるあたりが憎いなぁと。この先のふたりについて考える時、とくに由紀ね、あまりに甘くしすぎても、逆にこの子たちの友情なんて薄っぺらいんですよ、所詮女の友情なんてうんぬんみたいな印象を助長するだけだと思うし。湊かなえは、女の友情を信じている人だと思います。もうひとつのテーマである生と死についてですが、これについては由紀と敦子のふたりともが薄っぺらな理解しかしていないことを匂わせている。自分が「因果応報、地獄に落ちろ!」の外側にいるような気になっているあたり、その浅はかさにあきれつつも、行く末へ待ち受けるものの重さを突きつけられるようで、なんともやりきれない。この作品でいちばん面白いのは、少女というタイトルが象徴する通り、物語が少女の持ち得る理解力や倫理観や行動力を越えないところ。その代わり、大人である読者に対してはミステリ仕立てというフックが与えられており、仕掛けを楽しむと同時に、意識のギャップについて考えを巡らせることができるようになっている。とくにわたしがしてやられたと思ったのは、たとえばひらがなの配合率。「子蟹」でも「こがに」でもなく、「子がに」って書いちゃうあたりはもう心憎いばかりです。いかにも、まだ習っていない漢字や難しい漢字はひらがなで書きました、みたいな。自分だったら、何も考えずに「こがに」にしよう、そのほうがかわいいし、ってなっちゃうと思う。ひらがなを多用することで、感傷的な文章を演出できることは寺山修司から学んだけれど、こんな使い方もできるんだなぁと目から鱗が落ちました。こんな調子じゃ、少女道はまだまだ険しそう。結論として、百合好きさんは押さえておいていいと思います。ただし、少しでもヘテロが絡むと許せない人はスルーしたほうが無難。で、ちょろちょろ感想を漁って読んでいたのですけど、「装丁は素晴らしいが、内容となんの関係もないように思える『少女』というタイトルはいただけない」という一文を見つけて唖然としました。まるでイメクラかってな感じのカバー写真は、内容と対になった悪意ある皮肉ではないかと思うのですが・・・。マジだったら痛すぎるし、冗談だとしても笑えない。なんだかなぁ。


幻の朱い実〈上〉

幻の朱い実〈上〉

02. 一月ほど前、ソランジュ エ デルフィーヌ公式ブログに上げられた「銀座四丁目のはるかな国へ」という記事で石井桃子大先生の名前を目にしまして。去年ネットニュースで訃報に接したおりには、自分の中では、村岡花子大先生とならぶ偉大な存在でありつつ、とくにそれへ触れることはありませんでした。わたしごときがどうこう言えるような存在ではない、と。しかし今年の春ごろ、とうてい看過できない話題が持ち上がったのです。その内容については、ウィキペディアの脚注がもっともわかりやすいでしょう。

石井が独身を通した理由について、井伏鱒二は『太宰治』所収の「をんなごころ」の中で病弱だったためと説明しているが、最初から結婚などするつもりがなかったと考えるべきだろう。戦後、女性だけのコミュニティをこしらえ、農業生活を行っていたことなどからも推察される。また、若き日のパートナーであった、小里文子の存在も見逃せない(彼女は文子の遺した家を買い取り、死ぬまでそこで暮らしていた)。これについては、『石井桃子集』、また、鳴原あきらの論文「幻の“ままの”朱い実〜石井桃子の自伝的【カムアウト】小説を読みとく〜」(『女性学年報』vol.23、2002年。日本女性学研究会/オルタナティヴ)に詳しい。海外の図書館員などが、「彼女(小里)によろしく」という場面が『石井桃子集』第七巻で頻出している。
Wikipedia - 石井桃子

80才を越えてから出版された自伝的小説『幻の朱い実』が、湯浅芳子宮本百合子、あるいは吉屋信子と門馬千代の関係をを引き合いに出すまでもなく、今でいう百合要素を多分に含んでいる、というかそれ以外のなにものでもないことは、一読すれば明らか。それだけに、「私たちは20世紀に生まれた」なるブログで「「白林少年館」の勇気ある試み(2007年3月8日)」から「一粒の麦もし死なずば(2007年3月20日)」まで13回に渡って石井桃子の足跡を追う記事を書かれた沼辺信一さんも、その取り扱いに悩まれたことを告白しておられます。ことがセクシャリティに関わる以上、一般映画の濡れ場特集よろしく、スキャンダラスな好奇の視線が集まることは避けられないでしょうから。しかし、アニースなどで執筆をしておられた鳴原あきらさんは、2002年の時点で「女性同士の恋愛小説に他ならない」と言い切っておられた。鳴原さんのブログ「世界の果てで、呟いてみるひとり。」に上げられた2004年11月10日の記事「どこからが誹謗中傷か。- 例えば『幻の赤い実』」によると、原稿を本人に送り、実際に読んでもらったところ、世間的なビアンのイメージと自身とのギャップに驚かれていたとのこと。なんというか、もう反射的に「2007-09-29 marsha, marsha, marsha」で触れたトーヴェ・ヤンソンとトゥーリッキのことを連想せざるを得ませんでした。70年代、ハードコア認定を避けるためにソフトポルノで多用された女性同士の関係に男性が興味を示すまでは、ポルノグラフィという虚構に当の女性たちが振り回されることもなかっただろうに。取りあえずわたしたちは、フィクショナルな百合小説として楽しめばよいと思われます。