少女論

セカイと私とロリータファッション

セカイと私とロリータファッション

前回の記事でロリィタのことを少し書きましたけど、そういえば大阪のロリィタさんが書かれた本をひとつ思い出したので。

もっとも、華やかな装いならば、ショッピングモールのなかにほかにいくらでも用意されている。そこから私はなぜ、この花と、お菓子と、フリルとレースをいつも選ぶのだろう。私個人についていえば、女の子中心のファンタジーにいつも飢えているからだと思う。いつも飢えている。もっともっと「かわいい」が欲しいのである。どうしてこれほどまでに「ロリータ的」なモチーフを求めて飽きないのか、それを語りきるには字数が足りない。これほどまでに私を含めた多くの女性たち、最近では男性の心までをもとらえているロリータファッションとは何か。それらはどこから生まれ、どこへいこうとしているのか。少女的なるもの。少女そのもの。主体としての少女。主張としての「少女」。男性の書き手によって客体として論じられてきた「少女論」ではなく、まさに自らがすでに「少女」である、より「少女」たろうとする、主体としての「少女」。そしてその主張。3年間そんなことを考えてきたにもかかわらず、そうしたものに私の目はなお引き付けられたままである。私は飽きない。もっともっと「少女」を語りたい。もう絶対に「少女」などとは呼ばれない年齢になっても、きっと私はどこかで私の「幻想の少女」になりたい。そんな気持ちを捨てきれずにいる。だから、今日もロリータファッションを着る。着るだけでは足りなくて、私の心は「彼女たち」の周りを漂い続けている。ファッションという「戯れ」のなかにありながら、何か確固たる主張を感じさせるこの不思議な現象をその熱を保ったまま記録したかった。本田和子が書く、「ひらひら」と日常性の支配をかわし続けてきた、しなやかで、したたかな「少女」。その「少女」の現在進行形。ストリートのそこかしこに、彼女らはかくれんぼをするかのように遊び、見え隠れしている。
青弓社 原稿の余白に - 21世紀の私家版「少女コレクション」〜『セカイと私とロリータファッション』を書いて(松浦桃) RiddleLinda☆松浦桃

その少女性への執着には、深く共鳴せざるを得ません。しかしこういう女性の書いた文章を読んだり話をさせていただいたりしていつも思うのは、やはりわたしは主体になれないし、なるつもりもないんだなということ。宮木亜矢子さんは「週末ロリィタの掟」第4回「ロリィタと男性」の中でヴァネッサ・パラディが主演した映画『白い婚礼』に触れ、ロリィタがそばにおいても良いのは、ロリィタを欲望の対象としてでなく、慈しみながらオブジェとして愛せる男性だけであると説かれていますが、オブジェと体を重ねてはいかんと思うのですよ。欲望そのものは本能ですから、その存在自体の善悪を問うのはナンセンスきわまる行為です。社会的には、そういった欲望をスポーツや勉強で発散することが望ましいとされますが、ぶっちゃけ男子は破壊衝動を通してそれを発散することが多いんじゃないかと思います。しかしわたしの考えでは、フェティシズムも欲望を昇華する一手段ではないかと。つまり対象との距離を相対的に引き離すことで、より精神的な快楽を強め、それ自体で完結しようとする行為なのではないか。とすればわたしにとって、少女と、少女同士の恋愛、あるいは友愛や家族愛など、それらに耽溺する行為はフェティシズム以外のなにものでもないのではないか。少女たちがこちらの存在を認識することすら厭うほどに徹底した他者性、それがわたしの美意識なのではないか。それは決して、倫理観などからくるものではありません。少女たちが自分の主体性を強めるほど、その世界からオミットされたわたしは客体化していきます。それは、かつておとなの男性たちが少女に押し付けた社会への不参加要請と、欲望を受け入れる従順さと重なり合います。わたしがその立場にわが身を置くとき、わたしはかつて少女たちが味わったものに近い感覚を得ることができます。すなわち、擬似的に少女を体験することができるのです。もちろんわたしが受け止める欲望は、性的なまなざしでなく、増してゆく少女の存在感なのであり、それを従順に肯定することによってわたしが希薄化する。しかし、かつて少女たちが希薄化した自己を包む繭として星や花に見出した小宇宙はもうありません。わたしたちにあるのは、そう、百合です。――かなり電波なことを書いたかもしれませんが、まだ書きながら考えをまとめている途中なので。


少女論

少女論

成女でもなく童女でもない、男でもなく女でもない─少女たちの蠱惑的な魅力としたたかな魔力を多彩に描き、少女の現在を読み解く刺激的な論考。都市に浮遊する記号、ナゾに満ちた彼女たちの身体に迫る。本田和子飯沢耕太郎・倉林靖・藤崎康・小浜逸郎堀切直人・谷口孝男・金塚貞文・瀬尾文彰・渡辺恒夫・橋本治種村季弘矢川澄子の総勢13人による共同執筆。(版元の紹介文より)

上記『セカイと私とロリータファッション』と同じ青弓社から1988年に出版された、本田和子の『少女論』。執筆陣のラインナップから、明らかに澁澤の『少女コレクション序説』を意識して企画された本なのがわかりますけれども、本田和子矢川澄子でしっかり前後を抑えてあるのにニヤリ。男性サイドの少女幻想を完全に排除してしまうと、それはそれでなんか違うかなぁと思う昨今。でも、百合好きとしては主体としての少女と、その主張の交換と受肉化に意識を集中させたほうがいいような気もします。幻想でありつつ、共感に最大の重きを置く少女の価値観とのバランスをどこでどう取るのか。そして、すでに形になりつつある「百合もの」の文脈やお約束と、少女論的リアリティとの折り合いをどのあたりでつけていくのか。ヘテロ過ぎる「少女」をいくらこねまわしたところで、百合的に得るものはなにもないわけで。少女記号と百合記号は、必ずしも一致しない、というか一致しない(ように見える)ことのほうが多いし。そこらへんをはっきりさせることがキモになるのかな。ググっていてみつけたのですが、高野麻衣さんという音楽ライターの方も青弓社の出版物で乙女なエッセイを書いてるっぽい。ご本人のブログ「乙女のクラシック」をざっと読ませていただきましたが、「クラシックは、女の子が好きなものでできている。マリー・アントワネットのように軽やかに優雅に、音楽や映画や書物を語ろう!“美しきクラヲタ”革命!!」という紹介文の通り、乙女いかに生きるべきかが考察されていてたいへんおもしろいです。あとでもっと精読しよう。これもフィールドワークの一環になるのかな? そういや記事中に斉藤美奈子の『モダンガール論』を読んだ旨が書かれていましたけど、やっぱあれ必読だよなぁ。