娘時代

ネット上で、百合漫画に少女漫画絵は不要的な意見をいくつか見掛けてびっくり。少女漫画最大の特徴である少女の自意識とリリシズムとロマンチシズムを持ち合わせない百合漫画なんて読みたくないですよ。というか、百合漫画ってのは限りなく先鋭化した果てに原点回帰した少女漫画だという認識だった。たとえば太宰治の「女生徒」で、主人公の少女がお風呂に入りながら、この瞬間どこかで同じ月を見上げる同じ年頃の少女を夢想してぽかぽかする場面があるけれども、自分が百合に求める少女世界はまさにそれ。 現実と幻想を行き来しながら、もうひとりの自分に囁きかける聲。『ミツバチのささやき』や『赤毛のアン』には、それらの要素が濃密に含まれている。まさにバイブルといっていいし、足早に通り過ぎてゆく実体のない少女――実体を持つのは"少女期"の女性なのであって、"少女"ではない――のアウトラインを捉えるためには、そこに記された感覚を身につけなくてはならない。少女を体現し続けるアナの代わりにイザベルは大人の女の片鱗を見せ始め、夢から醒めることを拒み続けるアンの代わりにダイアナは現実を生き始める。『小公女』や『秘密の花園』も少女を読み解く手掛かりにはなるけれども、それらはビルドゥングスロマンとしての側面の方が強いように思いますね。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」とはボーヴォワールの言葉だけど、少女漫画の描線から滲み出る黄金の午後、かつての少女たちはその香りに惹かれて異界へと忍び込み、甘やかな拒絶とその身を隠す星菫とに少女が修めるべきものの薫陶を受けたわけですよ。あなたが少女愛好家なら、ボーヴォワールの『娘時代』はマジ必読の書です。そういえば、リセの哲学教師だったボーヴォワールと同性愛関係にあった教え子、ビアンカ・ランブランの『サルトルボーヴォワールに狂わされた娘時代』なんて暴露本もありましたね。ランブランの怒りは、ボーヴォワールが心酔するサルトルに、恋人であった自分をあてがうという裏切り行為に対して向けられたもの。サルトルは若い娘が好みだったんですな。とはいえ恨みに満ちた一方的な言い分なので、額面通りに受け取ることはできませんけど。 とにかくそれを読んでボーヴォワールバイセクシュアルだったことを知り、道理でルデュックにえらく入れ込んでいたわけだ…と合点が。とは言えリブの盛んな時代ですから、自分のリベラルぶりをアピールする狙いもあったかもしれませんが…。ルデュックの『私生児』(レベッカ・ブラウンの『若かった日々』に雰囲気近し)は映画化されているものの、ソフト化されていない幻の作品ですね。DVD出してくれないかなぁ。

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