The L Project

ここ最近でアンリミテッドに高まったのは、『「海外で遭遇した有名人」で一番忘れがたいのは、ニューヨークの小さなライブハウスにブロッサム・ディアリーを見に来ていたモリー・リングウォルド。夢みたいなシチュエーションだった』という山崎まどかさんのつぶやき。夢みたいっていうか、想像したことすらなかった。事実は小説より奇なりってのは、まさにこのことですな。みなさんお元気ですか。少し間が空いてしまいましたが、つぶやきをまとめておきます。



1. ハロプロのPVを編集して『Lの世界』OPをパロった動画。百合オタっていうよりはLカルチャーオタ向けかも。


2. ちょっとした桜庭一樹語り。マイファースト桜庭一樹は、名作の誉れを欲しいままにしたあるゲームの続編。大きく路線を変えた2作目は賛否両論だった。けれどどこまでも灰色な、いかにも90s的な終末観はとても魅力的な筋立てだったんじゃないかなぁ。ドジっ娘だったプリシアを冷酷無比な為政者として描くのは、かなり勇気がいったと思う。今ではユーザーの側でおっとりキャラの腹黒を妄想したりするけれど(黒春香とか)。実際に桜庭一樹の名前を知ったのはそのゲームのノベライズ版でだったけれど、自己紹介に"武闘派"とあったのを読んで、てっきりゴツいおっさんが書いているのかと思ったw 原作が男性向きのゲームだったこともあって。その後名前を見かけたら拾うようにしていたけれど、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は"おっ"と思った。というのは、どうしても吉本ばななの『TUGUMI』を連想せずにはいられなかったから。ダークなつぐみというか。『今日の早川さん』でも『砂糖菓子〜』にカブれるラノベ読みの小娘を茶化すような描写があったけれど、自意識全開な思春期ど真ん中の女の子が読めば、そりゃグッとくるよねーと。少女属性じゃない人にとっては、チャチなお話に映るのかもしれないけど。でもって、出版当時に表紙イラストを担当した子が、桜庭先生の本に描ける!と狂喜していたことを思い出しますね。その子はマリみての二次創作を描いてた子で、新大阪の繊維シティかどっかで開催されたマリみてオンリーだったかなぁ、メイド服着て売り子してるのを見たことがありますが、今は何をしてるんだろう。でも桜庭一樹直木賞を獲ってから出版された新装版では、見事に差し替えられちゃって。「この絵じゃ普通の人は手に取りにくいですし」ってコメントに複雑なものがこみ上げましたね・・・たしかにいい歳した大人が手に取るには厳しいかもだけど・・・。とここまで『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を持ち上げといてなんだけど、一番好きなのは読書クラブでも少女七竈でもなく『ブルースカイ』です。で、今一番気になるのは、ドラマ版『少女には向かない職業』の最終話が桜庭氏の意に沿ったものだったのかどうか、ということ。『乙女の祈り』のふたりは永遠に決別させられたわけだけど、『少女には向かない職業』のふたりがあれほどぎこちない再会をし、また淡々と別れる描写がたまらなく切なかったので。

イデオン」は30年経っても色あせない作品で「エヴァどころじゃないですねー」。そして、「エヴァは、庵野監督流のイデオンリメイクだ!」という分析までしてみせた。これに対し、「イデオン見てると正直ヱヴァが霞んで見えます。ファンの人には悪いけど」というリツィートがあり、坂井さんは「はげしくどうい」と賛同。多くの打ち返しがあったことに気をよくしてか、「団結して、もっと(イデオンの素晴らしさの伝達を)大きな動きにしていくべきだ」と呼び掛けた。
J-CASTニュース - 人気絶頂「ヱヴァ」より「イデオン」 坂井真紀の呼び掛けに賛同者続々

3. 37564展開はともかく、ED曲「コスモスに君と」は名曲。Perfumeカエラになりそびれた感のあるMEGがパーフリカバーで話題になる前、アニソンカバー企画盤『Cafe de Anime』で歌ってたバージョンが特に好き。Wikipediaにも書いてないから黒歴史かもだけど。もう忘れてる可能性もあるか。しかしそんな彼女が『MEG × ヱヴァンゲリヲン』なる企画を立ち上げ、Tシャツが発売後20分で完売というから世の中わからないもんですね。
livedoorニュース - MEG×ヱヴァンゲリヲン、発売わずか20分で完売
坂井真紀は『あの「コスモスに君と」を歌っておきながらエヴァなんかで荒稼ぎしおって!』と怒るべきじゃないのか。まぁそのへんは大人の事情やなんかでgdgdになりそうだけどね。そういやエヴァのアンソロで、マリスミゼルのマナがボトムズが好きって言ってたな。かなり重苦しい内容だけど、内戦やってたカンボジアではすごい視聴率を取ったとか。なんか自分たちの日常がリアルに再現されているようで、感情移入しやすかったらしい。なんとも複雑な気分になる話。

スーパーフラット・ガールズラブ

最近ますます物忘れが激しくなる一方で、固有名詞がなかなか出てこなくてイライラすることこの上なし。なので、芋づる式に思い出した話を。ついこないだ、どこで見かけたかは忘れたのだけど(たぶんツイッターだろう)、町山智浩さんがカイカイキキのMr.を批判していたことについて言及した文章があって。で、そんなこともあったなぁと頭の片隅に引っかかりつつまた忘れかけた頃、こんなニュースを見かけたんです。

中国嘉徳国際拍売有限公司北京市内で開催した春のオークション会で15日、中国の現代美術界における巨匠、石冲氏の作品「今日景観(今日の景観)」が2609万8000元(約3億5300万円)で落札された。(中略)中国では、芸術品のオークションが盛んだ。作品そのものに対する評価以外に、投機的な思惑が強く働き、極めて高額で落札される場合も珍しくない。
サーチナ - ヌード作品に3.5億円―北京でオークション、「今日の景観」

なんというかもう反射的にゴッホの「ひまわり」を思い出さずにはいられないニュースですが、それよりいつから中国は「芸術なら裸婦もあり」になったんだろう? と素朴な疑問が。それとももともと? みたいなことを考えているうちに、また町山さんの話を思い出したわけです。さて、わたしが村上隆氏を意識し始めたのは、おそらくその他大勢の方々と同じく、2003年にルイ・ヴィトン村上隆田中知之のコラボレーションによってつくられたアニメ「SUPERFLAT MONOGRAM」を観たのがきっかけでした。

UNDER17がメジャーデビューしたのも2003年、ネット上で「巫女みこナース・愛のテーマ」が話題になったのも2003年。「ひょっとしたら、本当にオタ向けのものが市場を席巻するようになるかもしれない」と思ったものでした。当時はまだ「ははは、こやつめ」というセルフ突っ込みつきでしたが。そして現在、それはほぼどのジャンルでも現実のものとなりつつあります。で、件のMr.批判は過渡期にある2007年に書かれた記事なんですね。

アニメやマンガが長年かかってやっと作り上げた国際的評価に後からのっかって、それを手軽にマネして「アート」として売る。この手の「アート」屋たちがやっていることは、アニメやマンガが達成したものを「搾取」しているわけだ。
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 昨日の絵は1500万円

翌2008年には、村上隆制作のフィギュア「マイ・ロンサム・カウボーイ」がサザビーズのオークションで16億円で落札されました。オタネタでそんだけ荒稼ぎされれば、低賃金で働くアニメーターや原型師のエピソードを直接間接問わず漏れ聞くオタは黙っていられないというもの。しかもそれが、誰もが知っているものを目的にしたがって引用するのではなく、剽窃によってでっち上げられた作品だと。この問題について、さらに考察をされているサイトさんがありますので少々引用。

おたく文化には文化的価値、とりわけアートとしてのヴァリューがある。海外ではその認識が普通になってきている。なのに肝心の日本人が全然分かってない。だから村上さんひとりに好き放題やられてるし、貴重な資料もどんどん流出してるんじゃないですか?
Nyao's Funtime!! - 村上隆批判をしている暇があったら「おたく文化」資産の維持管理に危機感を持つべき

これが書かれてから約2年半。ハルヒ動画共有サイトの絶大な影響によって、ライト層まで含めればオタ人口は飛躍的に増加しました。文化庁あたりも「アニメや漫画はクール・ジャパンの象徴」つってあれやこれやとイメージアップを図ろうとしていますが、なんかいろいろ空回りしている感が否めない・・・。そうこうしているうちに海外でのDVD販売数に陰りが見え始め、さらに加えて非実在青少年規制問題が浮上。文化庁はオタが寄り付きそうもないビル建てるより、才能や実力のある人材をそろそろ本気で現代美術界へ売り込んでいくべきじゃないですかね。


今週の801大賞

結婚しようと思った。でも、断られた。「本当に心の底からプロポーズしたんだろうか? 断られてから自問しました。結局、他人と家族を形成し、自分1人の責任を超えることから逃げてるんじゃないか? だから、本質を見抜かれ断られたんだ」独りきりで生きていく運命なんだと腹をくくった直後、今度は男から「村上さんに一生ついてゆきます」といわれてしまう。その男は「Mr.」という名のアーティスト。村上の一番弟子として、今でこそ人気が高く、作品は飛ぶように売れるが、当時はまだ海のものとも山のものとも知れなかった。「これって、もしかして結婚と同じ?」。悩みながらもMr.を雇い入れ、現代美術家としての活動を本格化させていく。村上は当時、後に出世作となる等身大のフィギュア作品を手がけていた。制作費用は出ていく一方。学園祭の講演やメディアへの出演をこなし、食いつないだ。「当時は本当に食えなかった。年が越せそうにないときがあって、学園祭でもらってきたタダ酒をパーティーで売って年を越そうとしたり…」テーブルはMr.と拾ってきた段ボールで作った。「金はなくてもやればできるよ!」とはしゃいでいたら、たまたまやってきた大学の同級生が、今にも崩れそうなテーブルを見て一言。「村上、お前ここまで堕ちたのか」。同級生はあきれながらも5000円を恵んでくれた。家族のように苦楽を共にし、“兄弟仁義”を交わしたMr.との暮らし。どん底の貧乏すら笑い飛ばしてきた。
【わたしの失敗】現代美術家・村上隆さん(45)

なんて萌え萌えなエピソードなんだ!っていう。まぁMr.もいろいろ言われて大変でしょうが、彼の作品にこんなのがありまして。

ほんとチョロいなぁと我ながら思うのですが、こういう絵を見ちゃうとどうしても嫌いになれないんですよね・・・。

don’t believe the hype

skb_mate022010-05-12


どういう流れでだかは忘れてしまったけれど、以前zoeさんから「君はヒップホップ聴いてたの?」みたいなことを訊かれて、まぁ人並みに聴いてましたと答えたことを思い出して。そもそもは高校の頃ハワイへ行ったおり、向こうの小学生から「Run D.M.C.って知ってるか?」と訊かれて「知らない」と答えたら、「なんだそれダッセーの! これからはヒップホップだよ!」と言われたので、そうかーヒップホップかーと帰国してから輸入盤屋でPUBLIC ENEMYやらN.W.A.あたりをチェックし始めたのだった。なのでバンバータやグランドマスター・フラッシュは後追い。で、いろいろ知っていくうちに、ヒップホップとはもともと実家のレコード棚にあるスクエアな、ダサいジャズやソウルのレコードを、ヒップで踊れる感じにアレンジするって発想だったということがわかってきた。少なくともクール・ハークがDJを始めた頃は。レアグルーヴは流れで印象を変えるという視点だったけれど、ヒップホップはさらに楽曲をパーツに分け、さらにリズミカルなしゃべりというかアジテーションを載せることで、文字通り「うた」だったポップスという概念をくつがえしたと思う。それはアフリカン・アメリカンにとって原点回帰だったのかもしれない。思えば、モータウンが3分ポップスを複製していくことでショウビズ界で台頭したことと無関係ではあるまい。先祖たちが残してくれた文化遺産を工夫して使うのだというプライドが大いに作用していたのではないかと思うけれど、とにかくそれが、90年代のストリートなリアルを直視的ムードに弾みをつけたのではないか。そして彗星のようにあらわれ、瞬く間にヒーローの座へ登り詰めたのがジョージ・ルーカスみたいな格好をした若きウェルテルだったわけだが、それはまた別の話。ヒップホップのもたらした驚きと影響力はとても大きく、ポストモダンな人たちも現象としての解体・脱構築がここにあるやんと食いついた。が、考えてみれば古着をリメイクしてかわいくコーデするとか、女の子たちは当たり前にずっとやってきてたことで。見りゃわかるものを、なぜまわりくどく言語化するする必要があるのか、彼女たちにはさっぱりわからないし、ナンセンスきわまりないわけですね。けっきょくのところ、好きか嫌いかでしかないことを知っている。以下、わたしの友人が「いつになったらすべてを説明するという習慣をやめるのでしょうかね(サティ『本日休演』譜面書込)」というタイトルで書いた記事の一部を引用。

“「正しさ」とは、けっきょくのところ「正しさ」の正しさを問うことができないようなところで成立している。だが、「正しさ」とは、まさにこのような「正しさ」の正しさを問いたくなるような場面においてこそ、その輪郭をあらわにする。”“私が何ごとかを意図するとき、私はそのことを考えている必要はないし、また、その他のなんらかの心的状態にある必要もない。意図はその後に展開するしかるべきエピソードとともに、回顧的に作られていくのである。”(野矢茂樹『哲学・航海日誌』)
ウィトゲンシュタインやダメットに触れると、そう、Spiritual Vibes に『ことばのまえ』というアルバムがあったが、その、かたちにできないが気配はする何かを際立って感じる。上記に引用したようなことは、あるいはベルグソンアウグスティヌスから霊感を受けていたことなのかもしれない。わたしたちはなんでもかんでも微分することに慣れすぎているから。微分積分とはまったくことなる意味での「全体」をイメージしてみること(むしろ高校時代、なかなか理解できなかった「集合」?)。しかもその「全体」は、「外」があって成立する「全体」であること。「外」について、それは到達できないものとして考察しない立場もあろう。けれども、「外」について、終わりなき言葉を空費することに一生を捧げる人間も、またあってもよいはずだ(言葉の「外」なのだから言葉にできるはずがないと知っていながら!)。

一旦抽象化して共通ルールを作り、勝敗を決めることで優劣をつけないことには、大変に困る人たちがいる。優劣がつかないと、権威も発生しない。そうすると権力にも結びつかず、ゴールがなくなる。数千年の時をかけ、勝者がそれ相応の権力を持つシステムを作り上げてきた人類にとって、総当りで波長があう、あわないを判別していくなんて行為は、まどろっこしくてやってらんないわけですね。よく女子はカテゴライズやレッテル貼りを嫌うといいますが、それは女という性が個人事業だからではないかと思います。それゆえ、男の前で態度の変わる女子は嫌われるんじゃないかなぁ。フェアじゃないから。とまぁ、こんなところです。名前が出たついでに、モータウンで活躍した女性のセッションベーシスト、キャロル・ケイについての記事を貼っておきます。書かれたのは小山エミさん。

モータウンでは白人のスタジオミュージシャンはたくさんいたらしく、Kayeが白人だからという理由で賞賛やリスペクトを奪われたということはありえない。だけど、女性として様々な苦労をしたというのは事実だろうし、自分の音なのに「女がこんな音を出せるはずがない」と言われたことも一度や二度じゃないと思う。そして、彼女がそれを打ち破って数々の名演奏を残したことは、賞賛されるべきだ。
minx [macska dot org in exile] - フェミフェミな音楽エッセイにツッコミいれてみる。

肩に純白の翼をもった想像的宇宙の天使、あなたはわたしの美しい扈従となるのだ。そうだ、あたしと Mとこの「城」で恋人同士の生活をはじめよう、二人の幽閉された巫女として…ではまた次回。

『星空サロン 夢見』 VOL.2 @あめりか村SOCIO


DJとして参加します。よろしくお願いします〜!


2009/5/15 開場:23時 ADD/2000 DOOR/2500


Cast ・GuestLive・ Degurutieni
コントラバスとガラクタとダミ声で赤く浮かび上がる奇怪な夢の一幕の様な世界をつくるムードメーカー。
去年秋にはニューアルバム「mad alone」を引っさげ、約二ヶ月のベルギーフランス30ヵ所のツアーも盛況に終え、大阪とヨーロッパを浮遊する。
愛と麻薬を歌う音楽はまるで毒薬のレシピ。百聞は一見にしかず。
http://www.myspace.com/degurutieni


・OpeningFetishCollabolationLive・ WitaSexAlice×sion★akihabara
「耽美かつ退廃的なフェティッシュショウは唯一無二の存在」がテーマの
彼女たちが奏でるショー構成にぶっつけサウンドトラック空間演出DJ。
http://wita-sex-alice.com/


・DarkCabaretLiveShow・ 秋葉原紫音×のぁ〜る姉妹


秋葉原紫音
キラキラ耽美ロマンティストが贈る。哀愁のダークキャバレーショーライブ。
http://www.myspace.com/sionsdarkcabarett


のぁ〜る姉妹
art+music×hungry*kirakira..。
http://mixi.jp/view_diary.pl?&id=1329326866&owner_id=1180162


・LiveArt・ gaimon genome


・DragQueenShowTime・ Rafflesia
らふれの夢は夜ひらく。シュールで摩訶不思議なラフレシアWorldを展開。
Drag Vegas, ACME主宰


・劇・ 虚構陳列室
http://kiwokubaco.fc2web.com/

・DJ・
VELVET MOON
http://www.velvet-moon.com/
Sense- sion★akihabara


・写真展示・ なおゆき


・booth・ PANDORA
http://pandola.dayuh.net/index.html


【次回星空予告】 SOCIO★71723:00


前売りチケット問い合わせ先 心斎橋SOCIO
〒542-0086 大阪市中央区西心斎橋2-1-15 2F
【tel】 06-6213-2060 【fax】06-6213-2061 
【e-mail】 music_socio@livedoor.com
http://idea-estate.co.jp/socio/
http://blog.livedoor.jp/music_socio/

又はCastまで.

百合子、ダスヴィダーニヤ

百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春

百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春

1. リーダーの7回忌にあたるこの日、こんなニュースを知ることになるとは・・・。

浜野佐知監督の新作『百合子、ダスヴィダーニヤ』を実現させるために、皆さまに資金協力をお願いしております。『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、1990年に書かれた沢部ひとみさんの著書で、ロシア文学湯浅芳子と作家宮本百合子の二人の濃密な青春時代が描かれたノンフィクションです。晩年の湯浅芳子に寄り添うように取材した沢部ひとみさんの手により、それまで宮本百合子により「一方的」に書かれていた二人の関係が、二人の往復書簡、また湯浅芳子の証言により、鮮やかに蘇りました。大正時代、湯浅芳子は女を愛する女であることを隠さずに生きました。一方、宮本百合子は、湯浅芳子との共同生活の中、作家として充実した時間を送りますが、後に日本共産党の書記長となる宮本顕治と結婚し、湯浅芳子のことを作中で酷評し、二人の関係を全否定していきます。湯浅芳子は、沢部ひとみさんが描くまで、宮本百合子との関係について沈黙を守っていました。『百合子、ダスヴィダーニヤ』に刺激を受けた浜野監督が、湯浅芳子宮本百合子の物語りの映像化に踏み切りました。映画実現のために1000万円の資金を必要としております。
『百合子、ダスヴィダーニヤ』を支援するブログ

当ブログ内で関係ありそうな記事は、「2007-05-22 今の私にできること」「2008-01-14 理系少女」「2008-02-22 青鞜」「2009-07-20 幻の朱い実」あたり。浜野佐知監督は、2003年7月に収録されたインタビューで以下のように語っています。

尾崎翠につぐ、紅吉と、湯浅芳子の二人をやりたい。湯浅は宮本百合子と8年間、一緒に暮らした。紅吉はらいてうとそういう関係だったでしょ。あとは田村俊子を絡ませてやりたいんだよね。いつだって陽が当たるのは、平塚らいてう、女の鏡! みたいなのって、ぜんぜん面白くない。スカートを最初にはいた、日本で最初にレズビアンをカミングアウトしたロシア文学者の湯浅芳子、彼女にスポットを当てたいの。でもまぁ、お金がかかりそうなんでねぇ。
Love Piece Club - フェミドルに聞け! 映画監督・浜野佐知さん

わたしはあいにくたいしたお金を持っておりませんので、『第七官界彷徨』『こほろぎ嬢』二本セットDVDを購入することで、支援に代えさせていただきたく思います。


2. でもって、ライフワークである少女論の参考にしようと引いてきたインタビュー記事。女の子ってなにをかんがえてる?

 ―Tommy heavenlyとしてのルーツは?
「やるとなった時、すごい数のアルバムを聴いたんですけど、バンド・サウンドで、女性ヴォーカルものっていうことで、マジー・スタークレーンズ…」
 ―ものすごくダークですね(笑)
「(笑)でもねぇ、そっち系だったんですよ、ピンと来たのは。あと、ちょっと明るいですけど、カーディガンズとかヴェルーカ・ソルトとか。まぁ、でも、その辺はイメージ的な参考という感じで、メロディになるとまた別というか。選び方自体、自分に似てるかどうかっていうところがポイントだったりして、曲はあまり聴いてないかもしれない(笑)。女性の音楽の聴き方って、そんな感じだったりするじゃないですか?」
 ―そうですね。男性が理屈先行なのに対して、女性は感性優先というか。
「そうそう、だから、まぁ、普通ですよ(笑)」
 ―(笑)いやいや、クレーンズは普通挙げないですよ。
「(笑)まぁねぇ。でも、今でも(2004年4月現在)聴くとなると、その辺なんですよ」
 ―あとは何だろう…たとえば、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインとか。
 「好きですねぇ。あと、ジーザス&メリー・チェインとか。しかも、だいたいファースト・アルバムがいいんですよね。やっぱり、最初のイメージで聴いてしまうので、逆に2枚目とかで作風をがらりと変えないでほしいし、だから、私はTommy februaryとTommy heavenlyを別でやってるっていう(笑)。だから、わりとベタなものが好きですね」
 ―最近のものではいかがですか?
ノー・ダウトとか好きだったりしますし…メジャーものはあえて挙げるまでもなく、みんな好きですね」
 ―かたや、Tommy heavenlyではなく、川瀬さんのルーツとなると、よく知られているところではフリッパーズ・ギターとかヴァネッサ・パラディなんかを聴かれていたんですよね。
「そうですね。フリッパーズ・ギターはバンドを始める以前、聴くものがなくて、DJをやってる友達に"これ聴いとけば大丈夫だよ"って言われて聴いてましたね(笑)。女なんて、そんな程度だと思うんですよ。"どれ聴いとけばお洒落なの?"みたいな(笑)。なんか、私の周りにはいつも音楽に詳しい人がいて、"これ、好きそう"っていうものを薦めてもらったり、あんまり好きじゃなかったけど、聴いてるうちに好きになったり…」
 ―そういう聴き方が実は本質的な気も。
「そうなんですよね。もちろん、薦められたものから自分でもセレクトはするんですけど、自分で探したことがないというか、なんか向こうから来る(笑)。で、あるから聴く、みたいな。で、変なものを持ってくる人とは付き合わない(笑)。それって、つまり感覚的に合わないっていうことだから」
 ―そういう風に薦められる音楽の中で自分なりの傾向はあります?
「そうですねぇ…自分にもできそうな音楽、想像がつくものですね。逆に言えば、自分に関係がない音楽は聴きたくないかな(笑)」

『ウーマン・イン・ロック クロニクル』Tommy heavenly(川瀬智子)インタビュー記事より

6年前のインタビューなうえ本音とアイロニーの比率を量りかねるものの、たとえば「乙女のクラシック - je t'aime ★ je t'aime」みたいな反応には、zubiならずとも"なるほど"とうなずいてしまうのではなかろうか。

白夜幻想譚

1. muzierefio霜月はるかを知り、ファンになって早7〜8年。以来、彼女たちがローゼンメイデンED・キャラソン西の善き魔女OP、マリみて4期OP等を手掛けるという嬉しい驚きを経つつ、ようやく今日生で聴くことができる。地方住みにとっては、なかなかに感無量である。 いやー…シモツキンやっぱ可愛いわ。なんだかんだで『ユラグソラ』とか『月追いの都市』辺りを聴いてた頃がヲタ度MAXだったんだけど、当時の気持ちが鮮明に甦りました。つか「白夜幻想譚」でうっすら涙ぐんだ俺キモスwwwwww kukui曲は「リトルプリムローズ」と、刀語4話のEDになるらしい新曲だけ。ゆめわたりやって欲しかったなー! バンドアンサンブルに数ヶ所「んぁ?」って場面があったものの、やはりフルバンドでやってくれて嬉しかったです。つうわけで、そろそろ茶太りんやみん様にも大阪公演を考えていただきたいなと。そういやMCやコンサートパンフレット読んで知ったんだけど、シモツキンがブルガリアンヴォイスを歌うことになったのったのって土屋暁のオーダーだったのか。好きでずっとやってたのかと思ってた。ブルガリアンヴォイスといえば、『アンジェリーク外伝2・緋の輪郭 音楽集〜ソリテア幻想〜』で上野洋子がバリバリ歌いこなしてるのに驚愕したのを思い出す。伊藤真澄のオーダーだったんだろう。灰羽連盟のイメージアルバムもそうだったけど、2人が組むと無敵だったな。



2. 週プレに載ってた逢沢りなのグラビアが良過ぎ。沼田元氣一門の川島小鳥撮影。モデル・スタイリングの良さはもちろん、色味といい明度といい好み過ぎて発作起こすレベル。写真集出たら欲しい。



3. デヴィッド・ハミルトン撮影の吉野千代乃、ピエール・エ・ジル撮影の菊池桃子寺沢武一が描いたdouble、矢沢あいが描いたコートニー・ラヴをなんとなく集めてみた。


463 名前: 彼氏いない歴774年 投稿日: 2010/04/23(金)
パンチラとパンモロの境界線をはっきりさせたい。後ろからのアングルか前からのアングル、どちらが人気なのかも知りたい。あとやっぱ柄と色の人気の統計を取りたいね! 個人的にはパンツが見られればいいかなと思うよ。女同士でも普段なかなかパンツまでは見られないからねえ。いやもちろん二次元の話だけど。いやまあ三次元のパンツも大好きだけど。いやまあでも画像とかにしか興味ないよ。動画はなんかあれなので画像しか集めてないよ。ていうかそもそもパンツ星人じゃないよ。パンツよりおっぱい派だし。パンツには世界で二番目に好きだと話そうかな。でもちゃんとパンツも好きだよ。ちなみに男のパンツは好きじゃないよ
喪ゲ女 - 境界線をはっきりさせたい@喪女板

4. お姉さまにぴったりの可愛いパンツ画像を集めておきました! どうぞ!

白だの黒だの


1. 「性格は正反対だけど大親友。女の子ふたりの幸せさがしの旅がはじまる」って惹き句に釣られて借りてきた『ドゥーニャとデイジー』を視聴。『リリィ、はちみつ色の秘密』に印象近し。前者はオランダに暮らすモロッコ系移民たちのルーツ意識とイスラム、後者は公民権運動と60sの南部におけるカトリックがキモ。もちろんわたしにとっていちばん重要なのは、おにゃのこの友情なんですけどね。タイトルバック、エンドロールがともにイヤらしいぐらいガーリィでたまらんかった。ソフィア・コッポラのうっとりする表情が目に浮かぶようだw しかしテオ・ファン・ゴッホがモロッコ系の青年に殺害されたりと、オランダではモロッコ系住民との民族問題が相当深刻なんだな。ドイツでもネオナチが台頭してきてってニュースを数年前によく目にしたし、いまやヨーロッパ全体の問題なんだろうけど。 そして引き続きジャック・リヴェットの『北の橋』を視聴。リベルタンゴ・パリの街角・二人の女ってキーワードで死ねる人向き。ただ、オチは訳わからなすぎw 笑える人ならいいけれど、マジ怒りする人もいるかもしれないw これを傑作だと賞賛したらしいドゥルーズって女の友情萌えだったのかな?w ちなみにリヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は百合者・アリス中毒者必見。だが『パリでかくれんぼ』はヒロインのパンチラしか記憶にない(←氏ね。


2. 下記引用はzubiからのメール。これを肴に少女を語ったりしちゃう?と話し合っていたものの、なかなか時間があわないのでわたしなりの感想を書いておきます。

犬養道子『幸福のリアリズム』、中央公論社、1980.収録の「日記のナルシシズム」に、以下のような記述がある。

外国人(西洋のみならず、東洋諸国をも含む)の日記には、ずらずら長く書いてある場合にも、相当に自分の内面を書こうとしている場合(たとえばアミエル、あるいはジュリアン・グリーン)にも、自分以外の他者や、あるいは、自分の外で起こっているいろいろなこと(必ずしも大きな出来ごとと限らない)が、かなりの部分───と言うより、最低六十パーセントくらいのわりで登場する。主観や「気持」に流されない。自分の内面を書くときすら「気持」の中にとぐろを巻いて書くのではなくて、むしろ、自分を突き放して、「他者」であるかのように見つめて、書いている。これにくらべ、大方の場合、日本人の日記は(『木戸日記』や、外交秘録としての日記『蹇蹇録』をのこした陸奥宗光等は例外で)、とくにも日本人女性の日記は、書いた当人にしかとどのつまりはわからないモノローグ(独白)的要素がかなりつよい。しかもそのモノローグは、ずいぶん多くの場合うつろい変わる「気持」に左右されているから、モノローグの書かれ方が文章としてすぐれている場合には、それなりの感動は読者に伝わるが、結局、「閉ざされた」記録なのである。他者とか外界は、「われ」と結びつく───もっと突っ込んで言うと、「われ」のそのときの「気持」に向って手さぐりよせることの出来るときに限り、登場する。(54−55頁)

犬養は近いページでは“天上天下唯我独尊とはこのことで、彼女自身だけが全世界なのである。”(58頁)とも表現しており、非常に面白い。何が面白いかというと、彼女は「成人してあること」の否定的材料としてではあるにせよ、少女の少女性を非常に正確に定義しているように思われるからだ。実際、彼女は実例として24歳の女性との対話を挙げているが、その女性の「女の子」たるや見事なものだ。犬養の意に反して、少女の気持がいきいきと伝わってくる。キリスト教文献でもたとえばオリゲネスの『ケルソス論駁』をとおして、論駁相手のケルソス、今はもう第一次文献は失われたケルソスの主張を正確に知ることができる。少女論も、少女を否定する、もしくは少女性に懐疑的な著作家の少女分析をとおして、その輪郭をより鮮明にすることができるかもしれない。

サラ・ウォーターズの『半身』の中で、作家ワナビーであるマーガレットが書いたものをインテリっぽいおじさまが読み、「自分はオモロく読めちゃったりなんかするけど、でもしょせん女の子の書くものなんて『マイ心の日記』でしかないよね。"ぽえ夢"レベルで文学しちゃおうなんて、やっぱ女の子ってのは軽佻浮薄な情緒マシーンでマジワロスw だがそこがカワユスwww」みたいなコメントをするシーンがあったけれど、それを犬養道子のような少女脳―なにしろ回顧録のタイトルが『花々と星々と』って人だ―の持ち主が同じように分析し、書き記したという事実がまず興味深い。いうなれば、多感な少女に向かって「君はバレエが好きだというけれど、腕や脚の動きと身体のフォルムが表現しようとするもの、そしてそれを目にした君の感動と連想と記憶へと澱なす様子を書き記したところで、それは所詮君自身と、君の感情に限りなく近しい感情を抱き得た刹那にある他者にとってしか価値がないものなのだよ」と言うようなもの。「だから腕や脚の動くメカニズムや、フォルムに象徴される記号と文法も書き込まなくてはね」などと諭されたところで、「ハァ?」ってなものだろう。少女にとってはいい迷惑である。が、その後の「彼女自身だけが全世界なのである」という記述は、「いや、セカイ系なんて少女漫画がずっとやってきてたことやん」を一言で言い表していて痛快ですね。特別でありたい、でも周りから浮きたくない・・・つまりはオンリーワンになりたいという少女の欲望そのもの。少年は違いますよ、彼らが目指すのはナンバーワンですもの。もうすんごくわかりやすい例を挙げると、正義の味方であるはずのセーラーネプチューンが「はるかのいない世界を守ってもしょうがないじゃない」って言い放つアレ。当時セラムン同人を買い漁っていたらしい庵野監督は、もともと少女漫画もよく読んでいたということで、そういった要素も盛り込みつつ作っていて、気がつけばパラダイムシフトしちゃってたーという感じなのかな。で、少女漫画ってお目々キラキラの美形キャラが好いた惚れた言ってるだけだろ?という認識だった連中が、「なにこれマジヤバくね?」って大騒ぎしたという。今では、気持ちの連続で紡がれる文章と、共感を主軸とした物語への関わり方のもつ価値(っていうのも勝手なレッテル貼りだけど)というものが、おっさんにもある程度理解されていると思いますけど。それはさておき、1980年当時にはまだ少女が社会に受け入れられていなかった。社会へ主体的に関わり得るのはだいたいがおっさんで、おっさんにとっての少女とは、セーラー服を脱がさずにはいられない程度の存在だった。音楽室の壁には基本おっさん作曲家の肖像画ばかりが掛けてあるけど、美術室にはデッサン用の裸婦像がいっぱい!みたいなね。そんな彼女たちが、どうして他者やその複合体である社会を絡めてものを考えなきゃいけないの?と思い至るのは、ごく自然なことだろう。最近NHKに推されている秦万里子も、自分の半径3メートル以内にあるもののみを歌って主婦に受けているというけれど、いま主婦をやってる人たちが当時は少女をやってたわけでね。以前にも塩野七生の「男を書く時は、女を書かなくても用はすまないこともないが、女を書く時は、男を書かないですませることはできない。それ故に、女を書くことは、結果として歴史の真実に迫ることになる」という記述を引いたことがありますけど、まぁそういうことです。だからこそ少女の意識はより内へ向かう。小倉千加子の言葉を借りれば、「物言わぬ自然と共にある時にだけ、少女は幸福」なのであり、そして「少女の心象風景以上にラディカルな風景というものは、この世にはない」と。もちろん世の中の少女がみんな『ミツバチのささやき』のアナや『赤毛のアン』のアン・シャーリーだと言うつもりは毛頭ありませんけど(環境にも左右されるし)、共振できる少女はものすごく多いんじゃないかな。